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2006年9月 8日 (金)

古代・中世日本語用例のローマ字表記について

新しい業績が出ました。

金水 敏 (2006.9.7) 「古代・中世日本語用例のローマ字表記について」音声文法研究会(編)『文法と音声 V』pp. 177-190, くろしお出版

音声・音韻史の専門家でない人が、古い用例をローマ字で書く時にどうしたらいいか、ということを検討した論文です。

2006年9月 6日 (水)

系統樹思考の世界

026955420000 下記の本を読みました。

『系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに』 
(講談社現代新書)
  三中 信宏著

税込価格 : \819 (本体 : \780)
出版 : 講談社
サイズ : 新書 / 294p
ISBN : 4-06-149849-5
発行年月 : 2006.7

三中さんは生物学がご専門ですが、本書の中でも書かれているように、この本は言語学も含めて、文理を越え、進化論的発想を共有するすべての学問を対象として書かれたものです。歴史言語学を志す人には、必読書と言えるでしょう。

まず、私の専門分野に関連して、恥ずかしながら知らなかった情報が書かれていたので抜き書きしておきます。

 時間的変化をたどる生物系統学が、同時に空間的変化を追求する生物地理学とも密接に関係するのと同様に、民俗学においては、単に時間的次元だけでなく、平面的な空間的次元をも考慮しなければなりません。岩竹は、シュライヒャーの「家族樹説」ならびにそれと対立して提唱されたヨハネス・シュミットの「波紋説」がどちらも民俗学に導入され、それぞれ「重出立証法」および「方言周圏論」という名で、日本の民俗学に導入された興味深い経緯があったと述べています。
 重出立証法とは、伝承間で共有される特徴を逐次的につなげていくことにより変遷過程を復元する方法です。他方の、方言周圏論とは、古い時代の言葉ほど周辺地域に残存するという主張です。前者は伝承の時間的な復元を目指すのに対し、後者は地理的な復元を目指します。
 重出立証法と方言周圏論は互いに対立するもので、しかも互いに補いあうべきものと岩竹は解釈しているようです。しかし、生物系統学ならびに生物地理学の観点からみた場合、両者は、もともとひとつのものの時間的断面と空間的断面に相当すると理解したほうがいいように私は考えます。つまり、ある文化的伝承(あるいは考古学的遺物)を、時空的に変化する系譜 (lineage) として一体的に理解しようという姿勢です。(pp. 110-111)

「岩竹」とは、下記の文献です。

岩竹美加子「「重出立証法」・「方言周圏論」再考(1)~(3)」、「未来」(396): 13-21; (397): 6-16; (399): 30-35, 1999.

方言周圏論は我々になじみの理論ですが、そのルーツについては寡聞にして知りませんでした。

理論的には、第3章「「推論」としての系統樹---推定・比較・検証」が大変勉強になりました。無根系統樹から有根系統樹を導く手続き、「最節約基準」、外群の導入などの概念が、分かりやすい説明で述べられています。また、第4章「系統樹の根は広がり続ける」の第4節「高次系統樹---ネットワーク・ジャングル・スーパーツリー」の項も、系統樹研究の新しい展開が伺え、言語学にも関係するところの大きいことが期待されます。

今までの歴史言語学では、比較言語学で極度に発達した系統樹的発想が席巻しているわけですが、最近では、一度分かれた枝がまた混じり合うという、まさしく「ネットワーク」的関係が注目されているわけで、問題の整理に、新しい理論が大いに役立つわけです。

また、自分自身の仕事と照らし合わせて、もっとも共感を感じたのは、「本質」と「進化」に関する議論です。

 “ヒト”には“ヒト性”、“サル”には“サル性”という「本質」があると仮定する心理的本質主義は、進化的思考とは根本的に矛盾します。あるカテゴリー(“ヒト”や“サル”)に本質(“ヒト性”や“サル性”)が存在するとみなすかぎり、カテゴリー間の移行(進化)は原理的に不可能だからです。(p.124)

「種」の実在性を支持する心情とはいったい何か―それは時間的に変化する“もの”が、なお同一性 (identity) を保持し続けるだろうという、本質主義の再来です。進化的思考以前の形而上学の実念論的的立場に従えば、ある「本質」を共有する群は強い意味で同一性を持つと主張します。しかし、進化的な思考をするかぎり、本質を仮定することは御法度ですから、現代進化学の舞台台本からは本質ということばは消え失せます。ただ、デイヴィッド・ウィギンズらによる現代の分析哲学的な存在論の議論が示している通り、ある群が時空的に「同一」であるという主張は、どうあがいても本質主義的な結論に到達してしまうようです。つまり、ある群が時空的な同一性を維持するためには、何らかの「本質的属性」を共有し続けなければならないということです。これは進化的思考と正面衝突してしまいます。
 (中略)私たちは、生物としての人間であり、進化の過程でさまざまな肉体的特性と心理的特性を獲得してきました。ですから、心理的本質主義者としてのヒトと進化的思考者としてのヒトとは、表層的には矛盾するのですが、真相的には各自がそれぞれ折り合いをつけていくしかないのだろうと私は思います。
 むしろ、みずからが心理学的本質主義者であることに気づかずに、さまざまな形而上学的思考を経験論的事実(あるいは原始仮定)として言い続けることにこそ問題があるのでしょう。私たちは本質主義に関してナイーヴであってはなりません。(pp. 259-260)

言語学でも、「本質主義」的な議論(例えばある「語」や構文的役割(「主語」など)の「本質的」意味はこれこれ、といったような)にはしょっちゅう出会いますが、それを言ったとたん、言語の変化やヴァリエーションということが一切説明できなくなってしまうわけです。このことはうすうす気付いていましたが、非常にきれいな形で整理していただいたことに感謝したいと思います。

とはいえ、この本はやはり入門書なので、「もっと深いところが知りたい」という欲求には充分答えてくれません。同じ著者の、『生物系統学』(東京大学出版会, 1997)を手に取ってみたくなりました。

2006年9月 5日 (火)

拙著要約

book_2309ここでご紹介した、拙著『日本語存在表現の歴史』の概要を、ある必要のために書きましたので、記録しておきます。

『日本語存在表現の歴史』
金水 敏(著)ひつじ書房(刊)2006220日発行

本書は、日本語固有の存在動詞「ある(あり)」「いる(ゐる)」「おる(をり)」の3語を主たる対象とし、その意味、用法等の分布と変遷について、歴史的な検討を加えることを目的とする。そのために、本書は第1部「「いる」と「ある」」および第2部「「いる」と「おる」」の2部構成をとっている。

1部では、まず現代共通語を中心に、「いる」と「ある」の違いを意味論、統語論の面から分析し、空間的存在文、限量的存在文、所有文、リスト存在文という分類を得た。次に、古代語において変化動詞であった「ゐる」が、「たり」を伴った形式から「いた」を経て室町時代に存在動詞「いる」に至った経過、またその際、「いる」が空間的存在文の意味を獲得したこと、その後、限量的存在文・所有文その他へと広がっていった過程を明らかにした。

2部では、古代語の「ゐる」と「をり」がアスペクト的意味において対立していたこと、平安時代に新しい形式「ゐたり」が成立し、その結果「をり」が特殊な動詞へと変容したこと、その「をり」の意味と文体との関係等について検討した。さらに、全国共通語の「おる」の機能が、漢文訓読文、武士言葉、上方言葉由来の町人言葉等、異なる経路を経て形成されたことについて述べた。併せて、人を主語とする存在文における「いる」「おる」「ある」の地理的分布と中央語の変遷を照らし合わせ、西日本では「いる」「おる」について京阪を中心とする周圏分布が形成されていること、東日本では「ゐたり」に起源をもつ「いる」「いだ」等の形式が広く強い勢力を持っていることを確認した。また、「動詞+存在動詞」「動詞+て+存在動詞」という形式によるアスペクト形式が、存在表現の語彙の変化と深い相関関係にあることについて概観した。

2006年9月 2日 (土)

文法学研究会

主に東京大学の先生方で運営していらっしゃる、「文法学研究会」というサークルがあり、毎年、「連続公開講義」という有料の催しを企画されています。今年の連続講義のテーマは「存在・存在文」ということで、私も9月23日(土・春分の日)に「日本語存在動詞の歴史と文法化」というタイトルで担当します。1回2,000円、全回通しで10,000円です。

「文法学研究会」のホームページ

2006年連続公開講義のお知らせ

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