日本語の将来を考える視点
こちらでご案内した公開シンポジウムの発表原稿(暫定稿)を下に掲示します。
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日本語の将来を考える視点
―「言語資源論」の観点から―
日本学術会議主催公開講演会 「日本語の将来」
主催 日本学術会議・言語系学会連合 後援 国立国語研究所
金水 敏
大阪大学大学院文学研究科教授
日本学術会議連携会員
1 はじめに
本発表では、日本語あるいは日本の言語事情の将来を考える視点として、「言語資源論」という考え方を提案したい。言語あるいは言語変種(標準語・方言、文体変種等)およびその要素(音韻、語彙、文法、文字・表記、語用論的規則等)を資源と捉え、人がそれを入手する際のコストと、得た結果として受け取る(と期待される)ベネフィット(利益)の面から、人々の言語行動や言語の歴史的変化、また教育・学習等について考えようとするものである。
言語を商品あるいは公共財と捉える「経済言語学」についてはクルマス (1993)、井上 (2000) を参照。また「言語資源」という用語は中村 (2007) 他、中村桃子氏の著作に見える。さらに、本発表で示される言語の階層的な見方は、水村 (2008) の〈母語〉〈現地語〉〈国語〉〈普遍語〉等の区別に多くを負っている。水村 (2008) への評価については後に述べる。
2 コストとベネフィット
外国語を学ぶためには、教科書、辞書、参考書を買ったり、塾に行ったり等の出費が必要であり、これらの出費をコストと考えることができる。その外国語が出来ることによって就職が有利になり、高い収入を得ることが出来るようになるかもしれない。これをベネフィットと認めることができる。これらは個人の支出と利益であるが、たとえば国家レベルで見ると、学校を作り教師を養成するコストと、その外国語が広まることによって国民の所得水準が上がり、国家の安全保障につながるというようなベネフィットを考えることができる。
上の例では、金銭的な価値と利益で説明したが、言語を学ぶには時間と労力と、脳内の記憶容量といった要素が必要で、金銭的に計算できるかどうかはともかく、これらをもコストと見なせる。現在すでに身につけている言語と、新しく学ぶ言語の差異が小さければ小さいほど、コストは当然小さくなる。
ベネフィットについては、井上 (2000) が参考になる。井上は、言語の価値を知的価値と情的価値に分けた。知的価値は実用面と教養面に分けられる。情的価値は、母語としての絶対的価値と、外国語としての総体的価値があり、後者はほぼ知的価値と反比例する(知的価値の弱い言語を話すと、その言語を母語とする人々に喜ばれるということ)。
いま、ある言語を手に入れることによって得られるベネフィットを列挙してみたい。まず母語としての絶対的価値は前提としておく。
- 経済的価値(使用者が多い。使用者が裕福。使用地域の経済が発達している等)
- 知的・文化的価値(価値ある原典・名作が読める。いい音楽・演劇・映画がある。多くの書物が翻訳されている。特定の学術・芸術分野における標準語となっている等)
- 社会的価値(品位の高い、尊敬すべき人物として社会に認められる、信頼が得られる等)
- 宗教的価値(聖典がその言語で書かれている。その言語が宗教的儀式に用いられる等。布教のための外国語学習も宗教的価値と関連づけられる)
- 安全保障的価値(衣食住その他生活維持の手段となる。地域に受け入れられる、外交を有利に進められる等)
これらの価値は、独立しているというよりは相互依存的な面もあり、分離しにくい面もあろう。また知的・文化的価値というほど分析的でなく、単に「かっこいい」「あこがれる」"cool"といった感情をある言語に持つことがある。これは井上 (2000) とは違った意味で情緒的価値と言えるかもしれない。また、たとえば好きになった人の話す言語を身につけたいといった、個人的価値も当然あってよいが、これ以上は立ち入らない。
3 音声言語と書記言語
言語資源について考える場合、音声言語と書記言語(文字言語)の違いについては十分留意する必要がある(cf. 金水 2007、金水・乾・渋谷 2008第1章)。人間は生まれてまず音声言語を獲得するのであり、例外はあり得ない(手話は、音声言語の亜種と考えておく)。)話すことは人間の"本能"(ピンカー 1995)である(後述)が、書くことはそうではない。音声言語は、同時性、対面性という時間的・空間的・身体的な制約に縛られている(むろん、通信装置や音声・映像メディアによってその制約は弱まっているが、本質は不変である)。書記言語は、その制約から離れることを目的として使用される。書記言語は教育・学習によって伝承される文化である。書記言語は音声言語への何らかの回路を持つ(何らかの形で読める)ことを前提とするが、書記言語と音声言語の関係性・緊密さの在り方は、書記体・文体によってさまざまである。
4 階層的言語観
人間が生まれて最初に獲得する言語を〈子供の言語〉と名付けておく。〈母語〉あるいは第一言語と言ってもよい。子供の成長とともに、地域社会に同化していく過程のなかで発達・成長した言語を〈地域の言語〉と考える。ここまでは音声言語中心である。書記言語も存在するが、あくまで音声言語に付随・従属するに留まる。これらと区別して、〈広域言語〉という階層を考える。この階層は書記言語が中核にあり、音声言語はこれに従属する。法律、行政、産業・技術、学術、文芸等高度に知的な営為を担う言語である。これらの外側に、〈グローバルな言語〉が存在する。現代で考えれば、英語がこれに相当するが、あくまで書記言語を中核とする英語である。英米など英語圏ではもちろん英語での〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉に相当する段階が存在する。
成長、あるいは教育・学習の段階として〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉〈グローバルな言語〉は概ねこの順序で進行していくことを想定しているが、むろん子供は話し始めてすぐ社会化されていくし、書記言語・英語等の訓練も幼少から始まるので、各段階が画然と分かれているわけではない。
4.1 〈子供の言語〉
既に述べたように、子供が話すのは"本能"であり、自然である(cf. バイオ・プログラミング仮説)。ただし、臨界期までに養育者("母親"で代表させておく)の関与的な語りかけがなければ、子供は正常に母語を獲得しにくいこともよく知られている。母子の音声(時に手話)による濃密な相互交渉の中から〈子供の言語〉が発芽する。
〈子供の言語〉では、当該言語の音声・音韻構造、基本文法(形態論・統語論)、基本語彙が獲得される。スタイルの分化は(定義上)存在しない。むろん、成長の過程でやがて訂正されるべき、音声・文法・語彙上の誤りもそこには含まれる(幼児語)が、そういった誤りが生き残って新しい言語の要素となることもある。子供は親や上の世代の言語をコピーするのでなく、その都度新しく自分の中で言語を作り直している。子供の言語と大人の言語との差分をどう調整するかは、一種の抗争関係と見ることもできる。
〈子供の言語〉が"本能""自然"であるとすれば、その獲得コストは限りなくゼロに近いと言える。むろん、養育者には養育費が必要であるが、これは養育者の負担であって、当の子供が支払うものではない。ただし、〈地域の言語〉〈広域言語〉〈グローバルな言語〉を習得する際に、〈子供の言語〉との差異の大きさによって支払うコストが異なる。〈子供の言語〉はいわばその話し手にとっての"宿命"である。
4.2 〈地域の言語〉
〈子供の言語〉から、大人の言語である〈地域の言語〉への発展は、単に語彙が増加するというよりは、複数の言語変種あるいはスタイルを獲得していくことと考えられる。これは敬語や共通語の獲得ということが含まれる(スタイルという程のまとまりのない、挨拶の仕方、お愛想や謙遜の言い方、無難な世間話の仕方等々もここに入れておく)。またスタイルの獲得は、スタイルを適用する際の語用論的ルールを同時に習得することとセットになっている 。言い方を変えれば、politenessに関する知識を身につけるということである(Brown & Levinson 1987, 滝浦 2008)。
〈地域の言語〉は地域社会に一定の役割をもって溶け込むために必要であり、経済的、安全保障的な価値を持つ。社会によっては小さいときから家庭や地域社会の中で大人になることをもとめて早い年齢から厳しく躾けられ、〈地域の言語〉を身につけされられるが(近世の日本ではそうであった)、現代社会ではそのような圧力が比較的小さく、かえって大学生が就職活動の際に敬語の本をお金を払って購入するというようなコストのかけ方をしている。
なお〈地域の言語〉は音声言語を主としているが、手紙、メールなどの通信言語は書記言語であっても〈地域の言語〉に含めるべきである。
4.3 〈広域言語〉
現代日本語の書記言語では、言文一致体に起源を持つ、いわゆる標準語の口語文がこれに当たる。もちろん、分野によってスタイルの違いが多々あり、また語彙の面で専門用語が多岐に分かれている。音声言語の面では、いわゆる標準語(全国共通語)がこれにあたり、放送、演劇、映画、学術活動等では必須となる。
〈広域言語〉は〈グローバルな言語〉とのインタフェースとなって、学術・芸術・文化的な語彙を生み出す場となっている。
〈広域言語〉を手に入れるためには、通常は大学・大学院における高等教育によるわけで、多大なコストがかかるが、高い年収や社会的尊敬を得たり、知的・文化的に充実した生活ができるなど、経済的・社会的・知的・文化的価値が高い。
しかし、方言による差異が多少あるとは言え、〈地域の言語〉と連続的な言語によって高等教育の頂点まで自国語でまかなえる、あるいは世界の最先端の研究や文学作品の多くが翻訳で読めるという状況は、欧米を除けば世界でもまれである。日本国内にいる限り総てのことが日本語で事足り、また日本語で動くマーケットが一定の大きさを持っていたという状況が、日本人から外国語を学ぶ意欲を失わせ、結果として日本人を今日の英語グローバリズムの中で苦境に立たせているという点は直視しなければならない。
なお、言うまでもなく言文一致体や標準語は近代の産物であり、(明治初期も含めて)近世以前では、この〈広域言語〉の位置を、漢文・漢文訓読文、候文、和文等の文語文が占めていた。言文一致体の完成は、音声言語と書記言語との距離を縮め、教育・学習のコストを下げる効果をもたらした。
さらに一点、日本語の書記言語の特徴として、書記言語の学習・運用コストが(おそらく世界一)高いということを付け加えておく。文字種が四種と多く、漢字が多数必要であり、読み分け・書き分けの規則も複雑きわまりない。住所や人名が読めなくて当たり前という状況は極めて異常である。一方でこの複雑な書記体系が、ある種の知的・文化的価値を生み出していることも否定できない(もちろん、日本語の母語話者の多くは、この表記体系に対して絶対的な情緒的価値を懐いている)。
4.4 〈グローバルな言語〉
アメリカの経済的・軍事的優位によって、現在英語が〈グローバルな言語〉な言語の代表に位置している。さらに昨今のIT環境の発達がこの傾向に拍車をかけていることも間違いない。英語は経済的、知的・文化的、安全保障的価値が他の言語より抜きんでて高く、また教師、教材、学校などが充実しているので学習コストも安い(cf. 井上 2000)。当分の間、この傾向は続くだろう。
中世ヨーロッパにおける古典ラテン語、19世紀前半までの東アジアにおける古典中国語(漢文)が、かつてはこの位置を占めていたことは言うまでもない("グローバル"とは言えないので、〈超広域言語〉とでも言うべきか)。これらは書記言語が中心であり、音声化をどのように実現するかは、各地域に任されていた。たとえば東アジアでは、広く"訓読"という方法が広く採られていた(吉田・築島・石塚・月本2001: 総論、野田 2010)。
かつて、各地域で〈グローバルな言語〉に到達する人々は、その地域における知的エリートであった。選ばれた人々が特別なコストを支払ってその位置に達した。古代中世においては、経済的価値というより、知的・文化的、宗教的価値(そして安全保障的)価値を得るためにその言語に接近しようとした。
今日の英語は、書記言語を中核としながら、映像・音声メディアを通じて音声言語までがグローバルな流通を果たしている。ポピュラーカルチャーの世界にまでグローバリズムが浸透し、大衆社会における情緒的な価値を獲得している。
世界の地域によっては、〈広域言語〉が十分育たず、知的に高度な業種や高等教育が英語等、その地域で有力な言語によって占められている場合が多数見受けられる。さらに〈地域の言語〉のレベルにいたるまで、英語等の有力言語に飲み込まれてしまうケースも普通に見られるところである。しかし、たとえば〈グローバルな言語〉である英語が〈地域の言語〉の位置を占めたとしても、必ず"地域化"(localize) とでもいうべき現象が進行する。ことに音声言語においてはその傾向が甚だしい。
5 バイリンガルについて
バイリンガリズムについて考える時は、〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉の各段階に分けて考える必要がある。世界の状況の中で、親の言語と地域の言語が異なる、両親の国籍が異なるなど、家庭内で2言語以上が用いられるケースは決して少なくない。その結果として子供が多言語を話すようになるが、ランダムに、あるいは反射的に言語が発せられる状態を経て、相手や状況を見て言語を選ぶ段階になる。それはいわば既に言語が社会化されている、つまり〈地域の言語〉のレベルに達しているということである。また多言語地域では、日常生活を送る中で自然にバイリンガルにならざるを得ない。このように、音声言語を中核とした〈子供の言語〉〈地域の言語〉では多言語的状況はむしろグローバル・スタンダードと言ってもいいほどである。
しかし、〈広域言語〉のレベル、すなわち高度に知的なレベルでのバイリンガルはこれらの状況とは直ちに繋がらない。つまり、〈地域の言語〉のレベルで、日常生活に十分な程度に二言語を使用することができる人が極めて多数いたとしても、そのような人が必ずその二言語ともに、知的な文章を読み書きできたり、人前で討議や発表ができるレベルに達するかというとそうではなく、やはり二言語それぞれに高いコストをかけなければならず、容易ではない。むしろ、一言語を知的に高いレベルに引き上げてから、多言語にスライドさせる方が効率的である、つまり、高度なバイリンガルを養成するために子供の段階からバイリンガルにする必要はない(あるいはそれはコストダウンには繋がらない)とする意見もあり、説得的である。ただし、子供の内から多言語状況に触れさせることは、相対的視点を身につけさせるという点で別の価値がある。そうであるとすれば、英語に限らずさまざまな言語(およびその背景にある文化)の存在に気づかせる機会を与えることが重要である。生物多様性のみならず、言語多様性、文化多様性を当然のこととする視点がこれからの世代において必要な教養の一つである。
6 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』
本発表の〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉〈グローバルな言語〉は、水村 (2008) 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』の〈母語〉〈現地語〉〈国語〉〈普遍語〉にゆるやかに対応し、それぞれの概念から大きな影響を受けている。本書は筆者の国語観に基づく英語教育に関する提言もあって甚だ興味深い。本書で「日本語が亡びる」というのは、危機言語 (endangered language) が消滅するというような意味ではなく、二重言語使用者による、〈普遍語〉たる外国語(英語・フランス語・ドイツ語等)との翻訳によって鍛えられた〈国語〉、絢爛たる日本近代文学の豊穣によって祝祭の時を迎えた〈国語〉が、「英語の世紀」の中で衰弱し、日本語が単なる音声言語=〈現地語〉へと堕してしまうことを指している。
水村氏の説は、日本近代文学への評価が余りに高く、逆に日常的な音声言語としての日本語=〈現地語〉への評価が余りに低いことに違和を感じない訳ではないが、日本において〈国語〉の構築が成功を収めた条件の指摘(〈現地語〉での書き言葉が成熟していたこと、印刷資本主義が発達していたこと、日本が西洋列強の植民地にならずに済んだこと)はまことに説得力がある。ことに最後の点で、もし日本が近代維新に失敗し、植民地になっていたら、日本語の状況は現在とは似ても似つかないものになっていたはずである。水村氏は、つまり今後書記言語としての〈国語〉が今後衰弱し、音声言語中心の〈現地語〉のみになってしまったら、つまり明治に日本が植民地化されていたことと同じことになってしまうと訴えたのである。このような分析力・想像力は、日本語の将来を考える上でも重要である。
7 さいごに
以上、言語を資源の一種と捉え、それを得るためのコストと得たことによって新たに入手可能なベネフィットの両面から考えていくという「言語資源論」の観点から、日本語の過去と将来を考えていく視点を提示した。どのような言語状況が将来の日本にとってふさわしいかという問題について考える手がかりになれば幸いである。
参考文献
井上史雄 (2000)『日本語の値段』大修館書店
金水 敏 (2007) 「言と文の日本語史」『文学』第8巻・第6号(11, 12月号)pp. 2-13, 岩波書店
金水 敏・乾 善彦・渋谷勝己(共編著)(2008)『日本語史のインタフェース』シリーズ日本語史, 4 岩波書店
クルマス、フロリアン(著)諏訪功・菊池雅子・大谷弘道(訳)(1993)『ことばの経済学』大修館書店
定延利之 (2006) 「ことばと発話キャラクタ」『文学』 7(6):, 117-129, 岩波書店
滝浦真人 (2008) 『ポライトネス入門』研究社
中村桃子 (2007)『〈性〉と日本語』NHKブックス, 日本放送出版協会
野間秀樹 (2010) 『ハングルの誕生―音(おん)から文字を創る―』平凡社
飛田良文 (2010) 「日本語の未来」『文学・語学』196: 50-59、全国大学国語国文学会
ピンカー、S.(著)椋田直子(訳)(1995)『言語を生みだす本能(上)・(下)』日本放送協会 (原著)Pinker, S. (1994) The Language Instinct, William Morrow and Company, New York.
ベイカー、M.C.(著)郡司隆男(訳)(2003)『言語のレシピ―多様性にひそむ普遍性をもとめて』岩波書店。(原著)Baker, M. C. (2001) The Atoms of Language: The Mind's Hidden Rules of Grammar, Basic Books, A Subsidiary of Perseus Books L. L. C., New York.
水村美苗 (2008) 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』筑摩書房
山本雅代 (1991) 『バイリンガル―二言語使用者 その実像と問題点―』大修館書店
吉田金彦・築島裕・石塚晴道・月本雅幸 (2001) 『訓点語辞典』東京堂出版
Brown, P. & Levinson, S. (1987 [1978]) Politeness; Some Universals in Language Usage, Cambridge University Press, Cambridge.
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