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2005年12月

2005年12月30日 (金)

アマデウス

友人のAくんが、CDを送ってきてくれました。次の演奏会の録音を収めたものです。

東京アマデウス管弦楽団
第64回演奏会
指揮 三石精一
2005年11月23日
新宿文化センター 大ホール
プログラム
モーツァルト「フリーメイスンのための葬送音楽」
ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」
〃「海」―3つの交響的素描―
フランク「交響曲 ニ短調」

このプログラムは、直前まで団長であった櫻井光寛さんのへ追悼の意味が込められています。櫻井さんは、私とAくんにとって、大学オケ、東京アマデウス交響楽団を通じての先輩で、伝説的な名フルーティストであり、我々、後輩の笛吹にとってはあこがれと尊敬の対象でした。50代にして病を得られ、急逝されたのですが、訃報に接して大変おどろいたものです。私と同学年であったAくんは、櫻井さんの代役で「牧神」のソロフルートを演奏していました。大変心のこもったよい演奏でしたが、やはり、櫻井さんが演奏していたらどんなだったか、という思いを禁じ得ません。

東京アマデウス管弦楽団は、東京にたくさんあるアマチュア・オーケストラの一つですが、創立以来優れた音楽性を保っており、海外遠征を何度も果たすなど、精力的な活動を続けてきた伝統ある楽団です。櫻井さんの逝去に接し、かつてこのオーケストラのコンサート・マスターを務めておられた、大平貴規さんのことを思い出してしまいます。大平さんも、大きなコンクールの入賞経験がある、驚くべき芸術性を持ったバイオリニストでしたが、プロの道を選ばず、研究者かつアマチュア音楽家として生きる道を選択されました。しかし大平さんもまた、不慮の出来事で若くしてなくなられました。東京アマデウス管弦楽団は、二人もの優れたアマチュア音楽家を、若くしてなくしてしまったことになります。

すぐれた知力と、並々ならぬ音楽の能力を与えられたお二人は、まさしく「アマデウス」=神に愛された人間と呼ぶにふさわしい方々でしたが、それ故に早く神に召されてしまったのか、などと考えるのは、生き残ったものの勝手な思いでしかないのでしょう。

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2005年12月27日 (火)

Nihongo Notes

0512 2005年12月25日、バンコクからの帰りに見たJALの機載誌『SKYWORD』(国際版)12月号に、興味深い英文記事が載っていました。"Nihongo Notes" (Justin McCurry, pp. 25-31)という、日本語についての概説記事で、日本語の起源、文法、敬語、文字・表記、現況等について読みやすくまとめてありました。東大の月本雅幸さん、国研の杉戸清樹さん等の談話が引用されていました。

内容は、概ね穏当・正確で、英文で書かれた日本語概説としては貴重な文章だと思います。

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タイでのシンポジウム

DSC02666 DSC02692 DSC02686 2005年12月21日から25日までタイ・バンコクに行っていました。チュラロンコーン大学文学部でのシンポジウムに出席するのが目的です。シンポジウムのプログラムをアップしておきます。

国際シンポジウム「アジアの表象/日本の表象」
日時:2005年12月22日
会場:チュラロンコーン大学文学部
主催:大阪大学大学院文学研究科
共催:チュラロンコーン大学文学部
プログラム:
講演「明治時代における恋愛観」佐伯純子(同志社大学)
研究発表「大江健三郎の作品における女性像---「奇妙な仕事」から「同時代ゲーム」」ドゥアンテム・クリサダーターノン(チュラロンコーン大学)
[コメンテーター:平松秀樹(大阪外国語大学)、荘中孝之(京都外国語大学)]
講演「役割語研究の動向」金水 敏(大阪大学)
[コメンテーター:岡崎友子(大阪大学)、松丸真大(大阪大学)]
研究発表「日本文学における「タイ」」ナムティップ・メータセート(チュラロンコーン大学)
[コメンテーター:佐伯純子]
研究発表「近松門左衛門の処罰物における親子関係についての考察」ヌッチャナン・ジャンジュナーマート(チュラロンコーン大学)
研究発表「「声の文学」としての語り物」
  「近世から近代における浄瑠璃」細田明宏(別府大学)
  「近代における浪花節」真鍋昌賢(大阪大学)
[コメンテーター:海野圭介]

学術活動のあいまには、おいしい(辛い!)タイ料理をふんだんにいただき、ワット・ポーで涅槃仏を拝観し、タイ古式マッサージを満喫し、美しいショーも拝見しました。タイの12月は、ほどよい気温で風も通り、大変過ごしやすい季節です。クリサダーターノンさんを初め、タイの皆様には大変お世話になりました。

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2005年12月18日 (日)

キャラ語

伊藤剛 (2005)『テヅカイズデッド』NTT出版(ISBN4757141297)では、「キャラクター」と「キャラ」という概念が使い分けられています。

 あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に簡単な線描を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方、「キャラクター」とは、

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表現として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義できる。(97頁)

私の「役割語」は、何らかの形で言語の実態から出発しているのが普通であり、すなわちそれ故に何らかの歴史性・社会性を背負っています。例えば〈大阪弁・関西弁〉の話し手は、江戸時代の、「江戸の上方人」から受け継いだ現実主義者、拝金主義者の性格をあらかじめ与えられている、というように。

しかし最近のマンガやアニメのキャラの中には、〈大阪弁・関西弁〉を使用しているにもかかわらず、そういった歴史性、社会性を一切持たないかのように見えるものがあるようです。それは、単にキャラの持ちうる取り替え可能な属性の一つとして、〈大阪弁・関西弁〉が与えられているだけなのかもしれません。

そういった作品におけるスピーチ・スタイルの用法は、〈役割語〉とは区別して、伊藤剛氏に倣い、〈キャラ語〉と言うべきなのかもしれない、と思いました。戦前の、中国人に対する蔑視とともに用いられた〈アルヨ言葉〉とは無縁に、中国人キャラに与えられる〈アルヨ言葉〉もまた、〈役割語〉ではなく〈キャラ語〉であるかもしれません。

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2005年12月15日 (木)

共通語の「何」

ここで書いた九州方言らしき「ナンナン」に関連して、私の語感による、共通語の「何」における「ナニ」と「ナン」の分布についてまとめてみました(福岡方言についてはくうざんさんがまとめてくださってます)。

(なお、共通語と言っても、私は東京には18歳から26歳まで8年いただけで、あとは関西圏で生活していました。

語形 ナニ ナン 備考
何が ×  
何を ×  
何に  
何で(道具・手段) ナンデは理由と紛らわしい
何で(理由) × cf. 「なんでだろー」
何から ×  
何まで ×  
何より ×  
何と[何が/を等] ×  
何と[言っていた?] ×  
何か[食べたい] 発話の丁寧さと関連する?
何も[ない]  
何にも[ない] ×  
[あれは]何だ/です ×  
[あれは]何[?] ×  
何だか ×  
何でも[かんでも] ×  
何て[すばらしい] ×  
何やかや ×  
何やら ×  
何なら ×  
何人、何点、何本 × 数詞
何千何万 × 数詞
[彼は]何人[?] × 国籍・人種
何々[の宮] × 不定
何々国 × 不定

この分布から何が分かるかというと、どうもよく分かりません。音韻的な法則とは言えないし、意味だけでも片づかないようです。

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2005年12月11日 (日)

「ぼく」から「おれ」へ

布施英利『マンガを解剖する』ちくま新書(2004.11, ISBN4-480-06206-8)から、気になった部分を引用しておきます。

 そもそも、はじめに「子供の世界」などという絶対的なものがあって、それを描くのではない。子供だって「創られた」世界に染まるのだ。ぼくの息子が、四歳のとき、自分のことを「オレ」と言うようになった。我が家では「ぼく」と言うように躾けていたのだが、家庭の教育に対する反抗か、親への挑戦か。だが、そもそも、どうして「オレ」などというボキャブラリーを覚えたのか。誰か友だちで、自分のことをオレという子供がいて、その影響なのか。

 息子に問いただすと、ひとこと「ジャイアン!」という。どうやら『ドラえもん』のジャイアンに憧れて、その真似をしているらしい。息子はまだ文字が読めない年齢だからマンガではなくアニメのほうの『ドラえもん』の影響だ。ジャイアンという理想のモデルがあって、それに近づこうとする。このモデルを作ったのは、子供ではなく、マンガ家、つまり大人である。(160頁)

拙著第四章3「ペルソナ(仮面)としての役割語」(127頁)に関わる内容であると思います。この例以外にも、幼児から少年に成長する過程で「ぼく」から「おれ」に一人称を切り替える話は時々耳にします。私はずっと「ぼく」のままでしたが。

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2005年12月10日 (土)

これも九州方言?

今日、とあるシンポジウムで発表をなさった、英語学のFさんに、「Fさん、九州のご出身でしょう」と聞いたら、「鹿児島です。どうして分かったんですか」と言われました。

どうして分かったかというと、不定の内容を表す「何々」を、「ナニナニ」ではなく「ナンナン」と話されたからです。

この「方言」について最初に気づいたのは、以前指導していた宮崎出身の大学院生が、演習の発表で「ナンナン」といったときです。最初、個人的な誤りとおもって「それはナニナニだろう」と指摘したのに、ぜんぜん直さなかったので、「これは方言かもしれない」と思ったのでした。そのあと、何人も「ナンナン」を使う人に会いましたが、すべて九州人でした。宮崎、福岡、鹿児島までは確かですが、その他の県に該当者があったかどうかはよく覚えていません。

なお、この現象について、方言として指摘した文献を見たことがありません。

あと確かめるべき事は、

  1. 九州のどの地域まで分布しているか。
  2. 九州以外に分布はないか。
  3. 「ナンナン」の使用に、個人差、世代差などはないか

といったことかと思います。情報をお持ちの方、お知らせ下さい。

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2005年12月 8日 (木)

Macは相性悪い

複数のマックユーザから、

「コメントを書き加えようとしたら、文字化けしたのであきらめた」

と言われました。ココログのスタッフにメールで聞いてみたら、端的に言うと「Windowsに最適化してるので、Macの動作保証はできない」という意味の返事をもらいました。

マックユーザの方、申し訳ございません。スタッフになりかわってお詫びします。なお、ネスケかサファリの最新ヴァージョンだとうまくいくかも、らしいです。

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2005年12月 7日 (水)

煮売屋

ここで取り上げた「煮売屋」について、詳しいテキストを桂米朝『米朝落語全集』第6巻(創元社、1982, ISBN4-422-76006-8)で見つけました。とりあえず引用しておきます。

清「しかしあんまり大きな声で腹が減った腹が減ったてなこと言いなや」
喜「なんでえな」
清「大阪者がみっともないがな」
喜「大阪者は腹減らんかえ」
清「そら大阪者でもどこのもんでも腹は減るけれども、大きな声で腹が減った腹が減ったてな、お前……お百姓に聞かれても面目ないがな」
喜「そやけど腹が減ってんのは腹が減った言わなしゃあない」
清「さあさあそこを粋言葉(すいことば)しゃれ言葉で言えんかちゅうねん」
喜「粋言葉しゃれ言葉いうたら」
清「つまりやな、らはが北山底でも入れよか、てなこと言うたら人に聞かれてもわからんやろ」
喜「わしが聞いてもわからん」
清「お前が聞いてもわからなんだらしょうがないがな」
喜「へッなんのこっちゃいない、らはがきたやま」
清「つまりな、はらをひっくり返してらはや、北山はすいて見える……はらが減った、らはが北山、底でも入れよか、飯でも食おかとこうなるねん」
喜「はーん……ほなつまり……ひっくり返して言うたらしゃれ言葉か」
清「まあまあ、ひっくり返して言うたらわかりにくいな」
喜「なんでもひっくり返るか」
清「そらなんでもひっくり返るがな。人間五りん五体ひっくり返らんこところはないわ」
喜「はらがらはか……、ほなまぁ胸やったら」
清「ねむ、やがな」
喜「そうか、肩は」
清「たか、てなもんや」
喜「背中は」
清「なかせや」
喜「ほな頭は」
清「たまあといきんかいな」
喜「でぼちんは」
清「ちんでぼ、てなもんや」
喜「あはなるほど、鼻は」
清「なは、や」
喜「口は」
清「ちく、や」
喜「目は」
清「め……まあええ」
喜「まあええことあれへんがな、さあ、目をひっくり返してもらいまひょ」
清「大きな目むきよったな。目はひっくり返らん」
喜「なんでや」
清「なんでてお前、目てなもんは肝心なもんやがな。な、こんなもんひっくり返したら物が逆さまに見えるで、目はひっくり返らん」
喜「あーそうか……ほんなら手は」
清「手……」
喜「目に手、毛に歯てなものはどないなる」
清「そんなもん選りないなお前、ぎょうさんあるんやなおい。お前の今言うたんはみな一字や、一字のものは上から言うても下から言うても一緒やがな。二字から上やったら何でもひっくり返るがな」
喜「そうか、ほな耳わい」
清「耳……」
喜「なにか清やん、やっぱり耳ひっくり返したら物が逆さまに聞こえるか」
清「さからいないな」
喜「耳に乳、頬(ほほ)に股(もも)てなものはどうなる」
清「なんぼでも出てくるのやな」
喜「な、お前なんでもひっくり返る言うたけれども、ひっくり返らんもんがぎょうさん出てきて、ことまにぼくめんだいしもないとは思わんか」
清「そらなんのこっちゃ」
喜「誠に面目次第もないをひっくり返した」
清「お前のほうがうまいのやがな」(45~47頁)

これが、現在分かっているズージャ語の最古のルーツです。この話がいつ成立したか、分かったらまた書きます。

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2005年12月 5日 (月)

オケラ語

オーケストラ部員のことを、大学教師は侮蔑の念を込めて

オケラ

と呼ぶのです。授業はさぼるし、課題はやってこないし、ろくな奴らではありません。30年前の私ですが。オーケストラに入れあげて、身を持ち崩したオケラを、私は何人も見ています。

オーケストラ部員の符丁というのは、バンドマン、ジャズマンなんかと共通している面があります。数字の呼び方などがそうです。ドイツ語の音名で数字を表します。

B(ベー)またはH(ハー)=7
A(アー)=6
G(ゲー)=5
F(エフ)=4
E(エー)=3
D(デー)=2
C(ツェー)=1

「ゲー万」というと5万(円)のことです。8,9,10の呼び方は忘れました。

あと、曲名の略称。

チャイコン<チャイコフスキーののコンチェルト。バイオリン協奏曲の場合とピアノ協奏曲の場合とある。
メンコン<メンデルスゾーンのコンチェルト。もちろん、バイオリン協奏曲。
モツレク<モーツァルトのレクイエム
ブライチ<ブラームスの1番。交響曲第1番。
マラゴ<マーラーの5番。交響曲第5番。
オケコン<オーケストラ・コンチェルト。バルトークのオーケストラのための協奏曲。

「トリセツ<取扱説明書」のような、一般的な省略語と同じやり方で、窪薗晴夫さんの『新語はこうして作られる』に詳しく解説が載っています。

ところで、こういう省略語の場合、長音「ー」は削除される場合と削除されない場合があります。ベートーベンの略し方ですが、私の経験では、西日本と東日本では長音の扱いが違ってました。東京では「ベトシチ」(ベートーベンの交響曲第7番)と言うのですが、関西では「ベーヒチ」と言うわけです。

東京風に言えば、「ベートーベンのコンチェルト」は「ベトコン」となりますが、密かに連帯の思いを込めていたのかもしれません。

略称じゃなくても、曲名に殊更外国語を使うなど、プロっぽい感じを気取ることが多かったですね。例えば、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」は「ヘルデン・レーベン」、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」は「ブルー・ダニューブ」と言ってました。

本番前の通し練習は、ゲネプロ。これはドイツ語ですね。ゲネラルプローベの略 《 【独】 Generalprobe 》 General probe 〔 劇 ・楽 〕。でも和製ドイツ語らしいです。

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2005年12月 2日 (金)

ズージャ語補遺

落語通の友人に聞いた話では、上方落語「煮売屋」(「東の旅」シリーズの一つ)に、ズージャ語のような転倒語を含むエピソードが入っているそうです。私が聞いた「煮売屋」ではその部分がなかったので、省略されることもある脇筋のやりとりのようです。「ラーハ(腹)が北山じゃ、底入れていこか」のようなせりふが入ります。このやりとりがいつ成立したか、まだよく分かりません。

またいろいろ例を思い出しました。「ポンニチ(日本)」「モノホン(本物)」「ワイハ(ハワイ)」「グラサン(サングラス)」など。

グラサンの場合、5モーラ語が4モーラに短縮されているのがおもしろいところです。

3モーラ語が転倒される場合、231となる場合と312となる場合があるようです。

231:ワイハ(ハワイ)、ヤノピ(ピヤノ)、ロイク(黒い)、マイウー(うまい)

312:タモリ(森田)、ナオン(女)、ビーチク(乳首)

どちらになるかは、口調の善し悪しの問題と、ぼんやりとは言えるかと思いますが、例えば「ナオン(女)」の場合、「ン」は語頭には立てないためという理由があるのでしょう。

あと、原語が「12イ」である場合、「1+2イ」と分解された上で「2イ+1」となるようですが、これは「○イ」が一音節と認識されているからではないかと思います。

そういう意味では「オンナ」は「オン+ナ」と分解される訳で、「オン」が一音節と認識されていると言えます。

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「僕」「俺」流行歌リスト

日本の流行歌で、「ぼく」または「おれ」(と「おいら」)を含むものの曲名リストです。「bokuore.xls」をダウンロード

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