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2005年12月18日 (日)

キャラ語

伊藤剛 (2005)『テヅカイズデッド』NTT出版(ISBN4757141297)では、「キャラクター」と「キャラ」という概念が使い分けられています。

 あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に簡単な線描を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方、「キャラクター」とは、

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表現として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義できる。(97頁)

私の「役割語」は、何らかの形で言語の実態から出発しているのが普通であり、すなわちそれ故に何らかの歴史性・社会性を背負っています。例えば〈大阪弁・関西弁〉の話し手は、江戸時代の、「江戸の上方人」から受け継いだ現実主義者、拝金主義者の性格をあらかじめ与えられている、というように。

しかし最近のマンガやアニメのキャラの中には、〈大阪弁・関西弁〉を使用しているにもかかわらず、そういった歴史性、社会性を一切持たないかのように見えるものがあるようです。それは、単にキャラの持ちうる取り替え可能な属性の一つとして、〈大阪弁・関西弁〉が与えられているだけなのかもしれません。

そういった作品におけるスピーチ・スタイルの用法は、〈役割語〉とは区別して、伊藤剛氏に倣い、〈キャラ語〉と言うべきなのかもしれない、と思いました。戦前の、中国人に対する蔑視とともに用いられた〈アルヨ言葉〉とは無縁に、中国人キャラに与えられる〈アルヨ言葉〉もまた、〈役割語〉ではなく〈キャラ語〉であるかもしれません。

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