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2006年5月21日 (日)

dVC分析:番外編

Th この3月で定年退休された、若山英子先生は、ミケランジェロを中心とする、イタリア・ルネサンス美術研究の大家です。私は一度若山先生に、、「レオナルド・ダ・ヴィンチを『ダ・ヴィンチ』と呼ぶのは恥ずかしい誤りだ」とたしなめられたことがあります。

実は、私が「ダ・ヴィンチ」という呼称を使ったわけではなくて、「ダ・ヴィンチ」を使った他の先生の講演名をメールでお伝えしただけだったので、つまり「誤爆」されてしまったわけですが(その後事情に気が付かれて、若山先生は私に謝って下さいましたが)、そのことがら自体は、深く記憶に刻み込まれるところとなりました。

確かに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonard da Vinci)」は「ヴィンチ(村)のレオナルド」という意味であり、「ダ・ヴィンチ」を呼称とするのは、「国定村の忠治」を「国定」と呼ぶのと同じで、滑稽なことと言わなければなりません。確かに、最近テレビに出てレオナルド・ダ・ヴィンチのことについてしゃべる人たちの発言を聞いていると、「ダ・ヴィンチ」と言うか、言わないかで、「素人」と「専門家」がはっきり分かれることが分かります。西洋美術の専門家は、必ず「レオナルド」と呼ぶのです。

有名人の呼称については、いろいろ面白い問題があるのですが、それはいつか述べるとして、とにかく「専門家の言うことはやっぱりひと味もふた味も違う」ということなのですね。それは、日本語についていろいろ素人談義がまかり通るマスコミの状況を見ても、明らかです。

若山先生は、専門家として『ダ・ヴィンチ・コード』にも深い関心を持っておられたようですが、2006年3月6日に行われた先生の最終講義で、次のように述べられています。

(前略)美術史研究と美術鑑賞とを明確に区別する必要がある(中略)。美術鑑賞は主観によってなされても一向に構いません。美術鑑賞は、作品が作られた歴史的な背景を正確に理解し、図像学の知識を十分に身につけていなくても可能ですし、作品の源泉となったテキストの内容やそれの註解に造詣が深いこともその条件とはなりません。一人ひとりが思い浮かぶ物語を作品に読み取っても構わないのです。
 たとえば大ブームになり、今は盗作問題が浮上している『ダ・ヴィンチ・コード』のように、レオナルドの《最後の晩餐》の福音書記者ヨハネをマグダラのマリアであろうと考えることも可能です。しかし美術史研究家であれば、《最後の晩餐》においてどの人物がどの位置にどのように表わされ、それはどのような原典に基づいているのか、また使徒たちの容貌と服装がイタリア美術の伝統にあってはどのような特徴を見せているのか、そしてレオナルドは作品の準備段階でその人物をどの位置にどのように描こうとしていたのか、などといったことを調べるのが基本です。そうすれば、キリストの隣に坐っている若者が福音書記者ヨハネであることに疑いの余地はなくなります。(当日配布のプリント・8頁より)

やはり、いくら事実めかして書いてあるとしても、エンターテイメントはエンターテイメントとして楽しむべきであり、現実と混同してはならないということですね。

(イメージは、若山先生の近刊『システィーナ礼拝堂天井画―イメージとなった神の慈悲―』表紙)

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