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2006年6月10日 (土)

dVC分析:英雄の旅

続きです

このシリーズで、以前、フォーグラーのダイアグラムを引用しましたが、そのもととなった、キャンベルのまとめの方が分かりやすいので、引用しておきます。

 冒険は上記のダイアグラムに要約できる。

 神話英雄はそれまでかれが生活していた小屋や城から抜け出し、冒険に旅立つ境界へと誘惑されるか拉致される。あるいはみずからすすんで旅をはじめる。それでかれは道中を固めている影の存在に出会う。英雄はこの存在の力を打ち負かすか宥めるかして、生きながら闇の王国へと赴くか(兄弟の争い・竜との格闘・供犠・魔法)、敵に殺されて死の世界へと降りていく(四肢解体、磔刑)。こうして英雄は境界を越えて未知ではあるがしかし奇妙に馴染み深い〔超越的な〕力の支配する世界を旅するようになる。超越的な力のあるものは容赦なくかれをおびやかし(テスト)、またあるものは魔法による援助をあたえる(救いの手)。神話的円環の再底部にいたると、英雄はもっともきびしい試練をうけ、その対価を克ちとる。勝利は世界の母なる女神と英雄との性的な結合(聖婚)として、父なる創造者による承認(父との一体化)として、みずから聖なる存在への移行(神格化)として、あるいは逆に---それらの力が英雄に敵意をもったままであるならば---かれがいままさに克ちうる機会に直面した恩恵の椋奪(花嫁の椋奪、火の盗み出し)としてあらわされうる。こうした勝利こそ本質的には意識の、したがってまた存在の拡張(啓示、変容、自由)にほかならない。のこされた課題は帰還することである。超越的な力が英雄を祝福していたのであれば、かれはいやまその庇護のもとに(超越的な力の特使となって)出発するし、そうでなければかれは逃亡し追跡をうける身になる(変身〔をしながらの〕逃走、障害〔を設けながらの〕逃走)。帰還の境界にいたって超越的な力はかれの背後にのこらねばならない。こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(霊薬(エリクシール))。
(訳書・下・六五~六六頁)

dVCで、最初に(刑事に)拉致されたのはラングドンですが、にも書いたように、この小説の真の主人公は、ソフィー・ヌヴーであると思います。或いは、ソフィーとラングドンが一体となって、試練をくぐり抜けていくと言ってもいいでしょう。ソフィーは本当に「神格化」してしまうし、「聖婚」というキーワードまで出てきて、作者はキャンベルを読んでるんじゃないの、と思いたいくらいですが、それは分かりません。

さて、ソフィーとラングドンが旅をするのは、遺物が収められた美術館や聖堂など、薄暗い洞窟のような所ばかりだし、追い求めるのはマグダラのマリアの遺品だし、ほんとに「闇の世界」の旅になっているんですね。

さて、無事帰還したソフィーとラングドンは、この世にどのような恩恵を与えたのでしょうか。神話では、まさしく世界を復活させるような霊妙な力を発揮するわけですが、近代小説では、それは結局「心の問題」になります。キャンベルの本の、結びの一節を引用しておきます。

 現代の英雄、すなわち召命を敢えて心にとめ、人類がその宿命として一体化せずにはいられないかの存在のすみかを敢えて探しもとめようとする現代の個人は、己れの所属する共同体に自尊心や恐怖や合理化された欲心や聖化された誤解といった古びた殻を脱ぎ捨てるのを期待してもはじまらないし、事実、期待してはならない。「生きよ、あたかもその日が到来したかのように」とニーチェはいう。社会が創造する英雄を導き救(たす)けるのではなく、まさに逆に創造する英雄こそが社会を導き救けるのである。だからわれわれはみなその一人びとりが、至高の試練に参加し---救世主の十字架を担っているのだ。しかも、己れの属する種族が大勝利をおさめる輝かしい瞬間においてではなく、己れ個人の絶望の沈黙のうちでそれに携わっているのである。(訳書・下・二二一頁)

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