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2007年2月 5日 (月)

「2001年宇宙の旅」の構造

2001v きのう、「2001年宇宙の旅」(以下、「2001年」)について書きましたが、今朝の新聞のテレビ欄を見たら、NHKのBS2で今日、夜9時から「2001年」を放送する旨書いてあったので、びっくりしました。単純な、偶然の一致です。

さて、最近、私が映画やマンガや小説を見るとき、意識しているのが、その物語の神話論的構造で、J. キャンベルや、その応用としてのC. Voglarの仕事に影響された見方です。これを「ヒーローの旅」(Hero's Journey)と名付けましょう。このブログでも、『ダ・ヴィンチ・コード』の分析に、その方法を適用してみた例を示しました(リンク 1, 2, 3, 4, 5)。また、その結果を短くまとめたものを、雑誌に発表しました(リンク6)。

「ヒーローの旅」の構造をあてはめると、実は、大抵の作品がこの枠の中に収まってしまうのです。私は以前、未公表のエッセーで「動物のお医者さん」を分析したことがあります。授業の中で、「風の谷のナウシカ」も扱いました。「のだめカンタービレ」も分析可能、と思っています。この作業が極めて有効である、といことは、極端に言えば、

すべての物語は「ヒーローの旅」である。

ということになるわけで、それは作品の個性を認めない、矮小化された、つまらない見方なのではないか、という疑問をもたれるかもしれません。しかし、私は、必ずしもそうは考えません。

「ヒーローの旅」の構造は、人がその作品を読んで(見て)その全体像を容易に把握することができる、最低限の(そして最有力の)「型」(の一つ?)です。つまり、どんな物語にも、この構造が「あって当然」なのです。いわばそれは方眼紙、原稿用紙の升目のようなものですから、物語を分析するときには、まずこの構造を当てはめてみて、どのくらいはまっているか、どの程度はみ出すか、ということを調べることにより、その作品の個性がより明確に把握できるのです。物語の幹や太い枝振りをしっかりとらえることにより、細かい葉っぱの形や花の形をしっかり比較・観察することができるのです。

それでは、「2001年」の分析に入ります。あらすじを、Wikipediaから引用しておきます。

遠い昔、ヒトザルが他の獣と変わらない生活をおくっていた頃、謎の物体がヒトザル達の前に出現する。やがて1匹のヒトザルが物体の影響を受け、動物の骨を道具・武器として使う事を覚えた。獣を倒し多くの食物を手に入れられるようになったヒトザルは、反目する同じヒトザルに対しても武器を使用して殺害する。

時は過ぎ月面で人類が住むようになった現代、アメリカ合衆国のフロイド博士は、月のティコクレーターで発掘した謎の物体「モノリス」を極秘に調査するため月面基地に向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは強力な信号を木星に向けて発した。

18ヶ月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員はデビッド・ボーマン船長ら5名の人間(うち3名は人工冬眠中)と、最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。

順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、今回の探査計画に疑問がある事を打ち明ける。その直後HALは船の故障を告げたが、実際には故障していなかった。2名の乗組員はHALの故障を疑い、思考部の停止について話し合うが、それを知ったHALは乗組員達を殺害する。唯一生き残ったボーマン船長はHALの思考部を停止させたあと、モノリスの件や探査の真の目的を知ることになる。ボーマン船長は一人で計画を遂行、木星圏内で巨大なモノリスと出合い、驚愕の体験を経て人類より進化した存在・スターチャイルドへと進化を遂げる。

初めてこの映画を見たときから、「この映画は、ほかのどの映画とも似ていない」という強い印象を受けました。それは、監督のクーブリックが、説明的なシーンやナレーションを一切排除して、神秘的で多義的な映画作りをしたことによっているのですが、それ故に、私はこの映画に「ヒーローの旅」の構造を当てはめる、という発想を持ちませんでした。まさか、「スターウォーズ」や「ナウシカ」と同じ構造に収まる、とは考えつかなかったからです。

ところが、昨日DVDを見直して、ふと「ヒーローの旅」を当てはめたらどうなるか、と考えてみたとき、たちまちにその枠組みに収まってしまうことに気がついたのです。

気がついてみて、改めて、それは当然のことだ、と思い当たりました。クーブリックは、この映画を 2001:a space odyssey と名付けています。「オデッセイ」です!クーブリックは、現代の叙事詩、現代の神話をこの映画で表現しようとしたのです。神話の心理学的分析から生まれた、キャンベルの方法が当てはまるのは、あまりにも自明のことだったのです。

では、「ヒーローの旅」の構造を復習しておきましょう。まず、キャンベルの訳本から引用します。

 冒険は上記のダイアグラムに要約できる。

 神話英雄はそれまでかれが生活していた小屋や城から抜け出し、冒険に旅立つ境界へと誘惑されるか拉致される。あるいはみずからすすんで旅をはじめる。それでかれは道中を固めている影の存在に出会う。英雄はこの存在の力を打ち負かすか宥めるかして、生きながら闇の王国へと赴くか(兄弟の争い・竜との格闘・供犠・魔法)、敵に殺されて死の世界へと降りていく(四肢解体、磔刑)。こうして英雄は境界を越えて未知ではあるがしかし奇妙に馴染み深い〔超越的な〕力の支配する世界を旅するようになる。超越的な力のあるものは容赦なくかれをおびやかし(テスト)、またあるものは魔法による援助をあたえる(救いの手)。神話的円環の再底部にいたると、英雄はもっともきびしい試練をうけ、その対価を克ちとる。勝利は世界の母なる女神と英雄との性的な結合(聖婚)として、父なる創造者による承認(父との一体化)として、みずから聖なる存在への移行(神格化)として、あるいは逆に---それらの力が英雄に敵意をもったままであるならば---かれがいままさに克ちうる機会に直面した恩恵の椋奪(花嫁の椋奪、火の盗み出し)としてあらわされうる。こうした勝利こそ本質的には意識の、したがってまた存在の拡張(啓示、変容、自由)にほかならない。のこされた課題は帰還することである。超越的な力が英雄を祝福していたのであれば、かれはいやまその庇護のもとに(超越的な力の特使となって)出発するし、そうでなければかれは逃亡し追跡をうける身になる(変身〔をしながらの〕逃走、障害〔を設けながらの〕逃走)。帰還の境界にいたって超越的な力はかれの背後にのこらねばならない。こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(霊薬(エリクシール))。
(訳書・下・六五~六六頁)

Voglarのヴァージョンを私的にまとめたものも、示しておきます。

「普通の生活」をしている〈ヒーロー〉が、ある日、異界の〈使者〉から「冒険への呼び出し」を受ける。〈ヒーロー〉は一旦この「呼び出しを拒絶する」が、老人の〈助言者〉に導かれ、励まされ、力を授かり、旅立つのである。〈ヒーロー〉は「最初の関門」にさしかかり、〈関門の番人〉に「試練」を与えられる。それらの過程で、〈味方〉と〈敵〉が明らかになっていく。〈敵〉は、〈ヒーロー〉を呪い、苦しめようとする〈影〉の部下であったり、〈影〉そのものであったりする。〈トリックスター〉はいたずらや失敗で〈ヒーロー〉たちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気づかせる。〈変貌者〉は〈ヒーロー〉にとって異性の誘惑者で、〈ヒーロー〉は彼/彼女の心を読みとることが出来ず、疑惑に悩まされる。やがて〈ヒーロー〉は「深奥の洞窟への侵入」を試み、「苦難」をくぐり抜け、宝の「剣(報酬)をつかみ取る」。〈ヒーロー〉は「帰還への道」をたどるが、その途上で死に直面し、そして「再生」を果たす。その後「神秘の妙薬を携えて帰還」するのであった。

「ヒーローの旅」を「2001年」に当てはめようとするとき、まずとまどうのは、この映画の「ヒーローとはだれなのか?」という疑問に直ちにぶつかるからです。この映画には、意識的に、いわゆる普通の意味でのヒーロー、あるいは、観客の自己同一化の対象としての主人公が排除されています。第1部「人類の夜明け」に出てくるのは、毛むくじゃらのヒトザル(とバクとヒョウ)だけで、個体識別すらできません。第2部はフロイド博士と他の研究者たち、第3部~第4部はボーマン船長、プール副船長、コンピュータのHAL 9000で、しかも、ニュース映像かドキュメンタリー・フィルムのような感覚で淡々と取られている上、どれも「花」のない地味な俳優たちばかりなので、感情移入のしようがないのです。唯一、第3部インターミッションの後の緊迫した場面では、ボーマン船長に感情移入してサスペンスが感じられますが、第4部の驚くべき展開の中で、その感覚も裏切られます。

結局、この物語におけるヒーローは、「種としてのヒト」と考えざるを得ません。つまり、ヒトザルが道具を得てヒトとなった時に冒険が始まり、やがて木星へと旅立ち、そして神性を得て(スターチャイルドとなり)地球へと帰還する。そのような旅路を歩むのは「種としてのヒト」であり、従って、個々のヒトザルや、フロイド博士やボーマン船長はその表現形でしかない。だからむしろ、個としての人格が極力そぎ落とされているのです。そのような、「種としてのヒト」の物語に同調できるかどうかで、この映画への評価が大きく変わるでしょう。同調できる観客は、今までに味わったことのない、大きな一体感と高揚感を得ることができるでしょうし、そうでない観客には、退屈で意味不明な出来事の羅列にしか見えないでしょう。

このようにヒーローを規定したとき、あとの要素は比較的たやすく見いだすことができるでしょう。Voglarのヴァージョンで言えば、モノリスが〈使者〉であり、かつ〈助言者〉であることは明らかです。モノリスは、ヒトザルに道具の使用を教えます。それは、魔法使いが魔法の杖をヒーローに与えることと、あるいは、オビワン・ケノービがルーク・スカイウォーカーにライト・セイバーを与えることと同じ意味を持ちます。ヒトザルは道具を得てヒトとなり、それは長い旅路の始まりである訳ですが、その旅の過程は、ヒトザルが投げ上げた骨がスローモーションで軌跡を描きながら一瞬で宇宙船へと切り替わる、見事なシークェンスで端的に示されます。

なお、この物語では、「冒険への呼び出し」は二度現れます。一回目は「人類の夜明け」、もう一つは月面でモノリスが発見されるエピソードです。フロイド博士は人類を代表して、モノリスにより、月面へと呼び出されます。フロイド博士は、かつてヒトザルがそうしたようにモノリスに触れ、そしてモノリスは、人類に新しい旅立ちへの道を指し示します。つまり木星への旅です。

宇宙への旅は、空への旅であるにもかかわらず、漆黒の「闇の王国」、「死の世界」への旅と言っていいでしょう(しかも船には、三つの棺のようなカプセルの中で生きながら死んだように眠っている三人の乗組員が同乗しています)。難しいのは、やはり、HAL 9000の「反乱」あるいは「発狂」の意味づけです。映画を見た人々の間でさまざまに異なる解釈や意見が交わされているのも、この部分です。ここではとりあえずHALは、〈関門の門番〉(gate keeper)と見ておけばいいでしょう。ボーマンがHALの機能を弱めたとき、星への関門 (star gate)が開くのですから。そしてここでも、モノリスが導き手として、宇宙空間を跳梁します。

ボーマン船長の最後の旅は、まさしく、「深奥の洞窟への侵入」です。地獄めぐり、と言うべき映像がスクリーン上に氾濫します。その果てにたどりついた「白い部屋」は、「苦難」とはほど遠いイメージですが、それゆえに見ている人にショックを与えます。鬼才クーブリックの面目躍如です。船長はそこで急速な老いと死を迎え、そしてスター・チャイルドへと生まれ変わり、地球へと帰還します(こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(妙薬))。

こうして見ると、「2001年」は、神話よりも神話らしい、壮大で神々しい、21世紀の神話であることが分かるでしょう。衝撃的で、それまで誰も見たことのない、圧倒的な映像美を持ちながら、全ての人が心の中に共通して持つ、物語の祖形をその構造として持っている故に、「2001年」は名作としての永遠の生命を得たのです。

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コメント

大変興味深く拝読いたしました。昨夜のBS放送を録画しましたので、早速「ヒーローの旅」という視点で見直してみようと思います。(劇場では幕が開く前にリゲティの「アトモスフェール」が流れますが、さすがにBSではカットされていました)

「世界の映画作家②ジョンフランケンハイマー/スタンリー・キューブリック/アーサー・ペン」(キネマ旬報社)を引っ張り出してぱらぱらめくっていたら、次のようなキューブリック(クーブリック)の発言が載っていました。

「この映画は大体、あらかじめがっちり書いたシナリオどおりに演出された。ラストの諸場面もシナリオにあった。このアイデアは宇宙飛行士が、よりすぐれた形でよみがえるというものである。これはもう天使か超人だ。彼はあらゆる神話のヒーローの様子で地上に戻る。実際、これはあらゆる神話の図式なのだ。主人公が大きな危険をはらむ魔の世界に降り立ち、あらゆる恐るべきアバンチュールにひきずりこまれ、そこから彼はいろいろな方法でほめたたえられるべき存在に変形される。彼は他の存在になったのだ」

制作発表時、この映画はJourney beyond the Stars(星々の彼方への旅)と題されましたが、その後2001:A space Odyssey に変更されたそうです。後者に決まって、「現代の神話」といったイメージが、より鮮明になったような気がします。 

投稿: マストルナ | 2007年2月 6日 (火) 09時53分

マストルナさま、
貴重なコメントありがとうございます。私の分析は言わずもがな、監督が既に考えていた通りのことをへたにまとめただけでしたね。

さて、私の見た文書の一つでは、スターチャイルドが、衛星軌道上に多数あった核弾頭ミサイルを除去していくシーンが最後に用意されていたともありました。まさしく、英雄の所行ですが、このシーンが実際には削除されて、つくづくよかったと思います。

この映画は冷戦下に作られ、映画にもその状況が色濃く反映されていますが、いまならさしずめ、スターチャイルドが冷凍ビームかなにかで地球を冷やしてくれるシーンになっていたかもしれません(もちろん、そんな映画は見たくもありませんが)。

なお、我が家のDVDには、序曲として「アトモスフェール」が付いています。その間、画面は真っ暗(!)なままです。私はこらえきれずに早送りしてしまいますが。

投稿: SKinsui | 2007年2月 6日 (火) 11時53分

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