戯れ歌シリーズ:コンピュータがんばれの歌
パソコンの動きが鈍いとき、励ます歌です。「あめふり」の節(ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん)で。
Search! Search!
Job! Job!
Run! Run! Run!
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
パソコンの動きが鈍いとき、励ます歌です。「あめふり」の節(ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん)で。
Search! Search!
Job! Job!
Run! Run! Run!
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
それが何であるかを意識させず(見えない)、しかも「いつでも、どこでも、だれでも」が恩恵を受けることができるインタフェース、環境、技術(Wikipediaより)
とかけて、何と解く?
しくじったや○ざのおとしまえ
と解く。その心は
ユビキタス(指切ったす!)
※ちょっと、グロかったか?
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
車で出勤する途中、NHK-FMで「私の名盤コレクション」という番組を聞くことがあります。
今週は小久保隆という人がゲストで出ています(再放送)が、この人は自然音とコンピュータ・ミュージックを組み合わせて環境音楽を作る人だそうです。
1956年生まれで、私と同い年のようですが、ヴァンゲリスを師と仰いでいるとのことで、電子音楽の洗礼を受けた世代として、共感を感じました。
ヴァンゲリスといってぴんと来ない人でも、映画「炎のランナー」(1981年公開)のテーマ音楽は誰でも知っているでしょう。今でもCM音楽に使われています。「ブレードランナー」や「南極物語」のサウンド・トラックでも有名です。
ヴァンゲリスは音符が読めないとか、飛行機が嫌いとか、いろいろ面白い情報を得ました。
改めて、電子音楽、特にムーグ・シンセサイザー以降の歴史を振り返ってみると、ウェンディ(ウォルター)・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」が1968年、冨田勲の「月の光」が1974年、まさしく私の中学校から高校にかけて、もっとも感受性の高い時期に流行ったわけで、脳が電子音にやられてしまったわけですね。
そのほか、ホットバターの「ポップコーン」が1972年、クラフトワークの「ヨーロッパ特急」が1977年、ヴァンゲリスの「反射率0.38」が1976年、喜多郎の「OASIS」が1979年、そしてそして、イエロー・マジック・オーケストラの「イエロー・マジック・オーケストラ」が1978年、「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が1979年といったところです。青春とともに、電子音楽がポピュラーシーンで発展していったことが分かりますね。
関連ページ:
http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/2006/01/midi_feef.html
http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/2006/03/post_97e6.html
http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/2006/04/post_827c.html
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
2004年に日産「ティアナ」を買って乗っていますが、車に
音声コマンド・システム
が付いていることに、今日気が付きました。
ハンドルの左手の握り位置に、ボタンがあって、それを押すとナビ画面が変わり、
「音声コマンドをどうぞ」
と車がしゃべります。それで、「ポン」という信号音のあと、
テレビ!
とか
CD!
とか叫ぶと、テレビやCDプレーヤーのスイッチが入る、という仕組みです。
声が小さかったり、早かったり遅かったり、認識に失敗すると、やり直しさせられます。
最初、標準語アクセントでやってみましたが、大阪弁でも大丈夫かな、と思って
テレビ
とか
シーディー
とか(赤字の部分を高く読む)言ってみましたが、ちゃんと認識しました。
あと、いろいろな方言でやってみたいところですが、運転中に遊んでいると危ないので、ほどほどにしました。
でもこれって、便利なんでしょうかね?? 有効に使っている人、いるんでしょうか……
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
2月18日付、毎日新聞の見出しです。
病気腎移植:すべて適切でない 宇和島徳洲会病院調査委
この文には、二つの解釈があり得ます。
これらの解釈の違いは、数量詞「すべて」と否定辞「ない」の作用域の広狭関係によります。
つまり、1では「すべて」の作用域が「ない」の作用域より広く、2では逆になります。これは、次のように表せます。
論理的には、1は狭く、2は広く、1のケースは2に含まれます。1例でも適切な手術があれば1は偽となりますが、2は真となります。
問題は、報道の言葉として、このような曖昧な表現を使うべきではないということです。私は、記事を読んでも、1、2のどちらを意図しているか、よく分かりませんでした。
皆さんは、どちらの解釈が意図されていると思いますか。
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)
兵庫県民として、一応、記録のために、書いておきます。
きのう、芸人のJTと女優のFNが、生田神社で結婚式を挙げました(こちらも参照)。
朝日新聞は、昨日の夕刊と今朝の朝刊ともにカラー写真で報道しています。ほかにニュースがないんか!?
これだけ世間が騒ぐと、ちょっと引くところもあるのですが、まあ、一応お祝いということで。おひな様姿のFNは、さすがに美しい。それに比べ、Jの貧相なこと。
まあ、どんなにN姫が美しくとも、それは人ごと、わたしは全然
うら○ましくないぞ!
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
先日の、会議の中で、教育モデル・プロジェクトのヒアリングが行われていました。
プレゼンテーションを聞いて、○○研究科の科長先生が、こういいました。
これは、内容がちょっと、あたりきたりですねえ。
「ありきたり」と言うべきところ、「あたりさわり(がない)」と混じってしまったようです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
あと、3日以内で30000ヒットに達しそうです。
もし当たりましたら、(気が向いたら)コメントなどでお知らせいただけるとうれしいです!
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
昨日の『ベルばら』WSのあと、講師および関係者一同で、近くの炉端焼き屋さんで懇親会がありました。
会の性格上、ディープな趣味の世界に詳しい女性が何人も出席され、「腐女子」「総受け」「総攻め」「BL」等々、新鮮な言葉が多数飛び交いました。
「総受け本はあるけど、総攻め本ってないよねー」
「あー、言えてるねー。名言だねー」
といった会話が、ふつーに交わされるわけです。勉強になりました。
特に、北の方の國から、少し長生きめのゴスロリ研究者兼実践者「麗さま」が来られていて、その美しさに見とれてしまいました。こちらのサイト参照。麗さまには、「プリキュア」のすばらしさ(「ギュッと手を握るところ」)を熱く教えていただきました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
昨日、テレビのチャンネルをあちこち見ていたら、不意に女性アナウンサーがまじめくさった顔でお詫びのメッセージを淡々と告知しているシーンが映し出され、思わず手が止まりました。TBS制作の「人間!これでいいのだ」という番組です。ホームページにメッセージの全文がありましたので、転載します。
「頭の良くなる音」についてのお詫び
2月3日、この番組で扱った、2000年に発表された「ハイパーソニック・エフェクト研究」について、不適切な扱いがありました。
企画立案の当初、研究チームの方々に対し、本企画に関するご協力と研究内容のご紹介をさせていただくようお願いしましたが、丁寧なアドバイスとともにお断りを頂きました。
こうした経緯があるにもかかわらず、今回の放送でこの研究を取り上げ、研究チームに無断で制作を進める過程で、不適切な扱いが生じ、研究に対する著しい誤解を導きました。特に、画期的な事実の発見とともに実験の厳密性を大きな特徴とし、現在国際学会で最高度の注目を集めている貴重な研究への評価、信頼性、応用可能性、及び研究者の皆様の名誉を著しく傷つけてしまいました。関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。
今後は、この研究の真価を正しく伝えて社会に広がった誤った認識を改めるために、その評価、信頼性、名誉を回復する情報発信に最善を尽くします。
また、この番組の制作にあたり、データの捏造などはなかったと考えておりますが、番組内で「頭の良くなる音」と断定的にお伝えするなど、行き過ぎた表現から視聴者の皆様の誤解を招くこととなりました。
視聴者、関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。
一連の「あるある」事件に刺激され、報道ですっぱ抜かれる前に先手を打ったものでしょう。たぶん、関わった研究者から、クレームがあったのだと思います。
私の専門は国語学・言語学で、自然科学とは若干ニュアンスが異なる部分もありますが、「研究チームに無断で制作を進める過程で、不適切な扱いが生じ、研究に対する著しい誤解を導」くような扱いをされたケースは、私の回りだけでも枚挙に暇がありません。制作者の不勉強による意味不明の問い合わせ、研究者の意図に反する結論や不正確な引用などに不快な思いをさせられた友人・知人の事例が複数存在します(一例として、ここ)。
テレビ特有の表現形態もあり、多少のことは笑ってすませてもいいのですが、「研究の真価」が「正しく伝」わらずに「誤った認識」を「社会に広」げられるという構図は、分野の境を超えて共通の問題が横たわっているように思われ、そういう意味では軽々に看過することもできないように思われます。テレビ番組が、視聴率獲得にばかり気を取られるあまり、視聴者の科学的判断を曇らせ、健全な思考の育成を妨げる方向にばかり向かっているのであれば、いずれ研究者は何らかのアクションを起こさざるを得ないでしょう。
関連して、私の身に降りかかった事例について、ご報告しておきます。某局で今も放送中の、日本語をテーマとしたバラエティ番組です。私はこの番組の司会を務めるタレントの言語感覚の鋭さに敬服しており、研究のヒントをもらうことも度々ありました。その番組の制作者から、去年の8月、電話がかかってきました。私の知人で、某国立大学の教授から紹介されて、電話をかけたと言っています。当初、私としては、好きなタレントに関われるということで、結構「うきうき」だったのですが、電話のポイントは次のようなものでした。
1については、意図がよく分からなかったのですが、私が本を書いた経緯などを話しました。2と3については、私は「キャラ語」を別の意味で使いたいと思っている旨を伝え、また3のような「物まね語」は役割語と関係ないとは言えないが(特定個人の特徴的な話し方が、その個人が属するカテゴリーの属性として認識されるにいたる場合もあったりするので)、それを扱う限りでは役割語とは別物と言わざるを得ず、そうであるならば、独自に「キャラ語」という概念でそういった物まね語を指すことについては、勝手にやってもらえばいい、と伝えました。そうすると、相手は、
それでは(某教授)と相談して、やらせていただきます。
と言って電話を切りました。
2週間ほどして、テレビ欄にその番組の告知があり、どうやら「キャラ語」が放送されるらしいことを知りました(私には、最初の電話以来、一度も連絡無し)。朝刊と夕刊のテレビ欄の見出しは、下記の通りです。
8月15日朝日新聞朝刊「タモリのジャポニカ/キャラ言葉」
8月15日朝日新聞夕刊「「タモリのジャポニカ/超有名キャラから学ぶ爆笑役割語」
「役割語」と出ているのが気になります。番組を、複雑な思いで、見てみました。冒頭から、お茶の水博士の「博士語」やら、お蝶夫人の「お嬢様語」やら、明らかに拙著からの引用と思われる例を提示し、こういう、キャラクターと結びついた話し方を「キャラ語」と命名します!と断言していました。そのあとで、電話でも言っていたような物まね語も「キャラ語」として提示し、クイズ形式の遊びをタレントにやらせていました。某教授は、番組の折々に出演し、「キャラ語」について解説し、タレントの解答を評価していました。最後まで、拙著や私の名前は一切(テロップも含め)提示されることはありませんでした。
この番組でやったことは、拙著から引用した「役割語」の概念と、「物まね語」を合体させ、「キャラ語」という用語で覆って提示するということで、私の考える「役割語」と別物と言えばそうです。このような形で私の名前が出されても、困るところがあります。かといって、部分的には私の考えも生かされ、それを踏まえて、どちらかといえば改悪されているわけで、事前の説明も極めて不十分ですし、全体として私は大いに不満かつ不愉快です。
特に残念なのは、何冊も言語学の解説書を出している立派な国立大学の研究者が、このようにアンフェアな提示の仕方に全面的に関わり、我が物顔に番組を取り仕切っている構図が見えてしまったことです。私は、この先生が関わっているから、そんなにひどいことにはならないだろうと思って制作者に一任した訳で、完全に裏切られた思いがしました。
(私は、この教授と絶交しようと思いましたが、もともとそんなに親しくなかったので、絶交してもあまり効果がないようです)
日本語関係の番組が増えることにより、多くの方々が日本語に興味を持ち、そのおかげで我々研究者が潤っている部分もなきにしもあらずですが、私がそういった番組を見る限り、たいていは噴飯もので、見るに堪えない内容が圧倒的に多いです。自然科学はもちろん、言語学でもその他の分野でも、同様のことは頻繁に起こっていると想像されてしまいます。娯楽性と、健全な科学的精神をうまく両立させるような番組作りというのは、確かに難しいことだろうとは思いますが、今の多くのテレビ番組制作者は、そのような取組を最初から放棄しているのではないでしょうか。残念ながら、そのように思われてなりません。
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (0)
今日、午前中、泌尿器科の某医院に行って、人生で初めての経験をしました。
直腸のエコー診察機器で、日本でもあまり普及していないそうです。
パイプ椅子のような腰掛けに丸い穴が空いていて、万年筆ほどの太さの、先の丸い棒が5cmほど突き出ている、と考えて下さい。
そこにゼリーを塗って、下着を脱いで腰をかける訳です。
直腸に、その棒がずっぽりはまります。
棒に、超音波エコー撮影装置が仕組まれていて、断層撮影ができるようになっています。棒は、自由に上下させることができます。つまり、直腸の中を、棒が上下に行ったり来たり(ゆっくりですが)するわけです。前立腺の診断に使います。
ちょっと悶絶もので、診察後はぐったりしました。まいった。
女性には縁のない診察ですが、男性各位、いつかはお世話になるかも知れませんぞ。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
シンデレラのツンデレ版「ツンデレラ」というのを、ふと思いつきました。
舞踏会で王子さまに声をかけられても、
ベ、別にあんたに会いに来たんじゃないんだからね!
って言ってしまう女の子です。
と思ってググって見たら、こんなことは誰でも考えるようで、いっぱい出てきました。多くは、ツンデレ愛好家のことをツンデレラーとかツンデレラとか言うみたいですが、一生懸命小説「ツンデレラ」を書いているひともいます。
ま、こんなことは誰でも思いつくってことですね。
ツンデレの言語分析については、こちらをご参照。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今更ですが、田中康夫・前長野県知事の出した
脱ダム宣言
は、
ポツダム宣言
のもじりであったか、と、思い至りました。真意のほどは分かりませんが、
と思ってググって見たら、やはり、同じ疑問を持った人はいたようです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
きのう、「2001年宇宙の旅」(以下、「2001年」)について書きましたが、今朝の新聞のテレビ欄を見たら、NHKのBS2で今日、夜9時から「2001年」を放送する旨書いてあったので、びっくりしました。単純な、偶然の一致です。
さて、最近、私が映画やマンガや小説を見るとき、意識しているのが、その物語の神話論的構造で、J. キャンベルや、その応用としてのC. Voglarの仕事に影響された見方です。これを「ヒーローの旅」(Hero's Journey)と名付けましょう。このブログでも、『ダ・ヴィンチ・コード』の分析に、その方法を適用してみた例を示しました(リンク 1, 2, 3, 4, 5)。また、その結果を短くまとめたものを、雑誌に発表しました(リンク6)。
「ヒーローの旅」の構造をあてはめると、実は、大抵の作品がこの枠の中に収まってしまうのです。私は以前、未公表のエッセーで「動物のお医者さん」を分析したことがあります。授業の中で、「風の谷のナウシカ」も扱いました。「のだめカンタービレ」も分析可能、と思っています。この作業が極めて有効である、といことは、極端に言えば、
すべての物語は「ヒーローの旅」である。
ということになるわけで、それは作品の個性を認めない、矮小化された、つまらない見方なのではないか、という疑問をもたれるかもしれません。しかし、私は、必ずしもそうは考えません。
「ヒーローの旅」の構造は、人がその作品を読んで(見て)その全体像を容易に把握することができる、最低限の(そして最有力の)「型」(の一つ?)です。つまり、どんな物語にも、この構造が「あって当然」なのです。いわばそれは方眼紙、原稿用紙の升目のようなものですから、物語を分析するときには、まずこの構造を当てはめてみて、どのくらいはまっているか、どの程度はみ出すか、ということを調べることにより、その作品の個性がより明確に把握できるのです。物語の幹や太い枝振りをしっかりとらえることにより、細かい葉っぱの形や花の形をしっかり比較・観察することができるのです。
それでは、「2001年」の分析に入ります。あらすじを、Wikipediaから引用しておきます。
遠い昔、ヒトザルが他の獣と変わらない生活をおくっていた頃、謎の物体がヒトザル達の前に出現する。やがて1匹のヒトザルが物体の影響を受け、動物の骨を道具・武器として使う事を覚えた。獣を倒し多くの食物を手に入れられるようになったヒトザルは、反目する同じヒトザルに対しても武器を使用して殺害する。
時は過ぎ月面で人類が住むようになった現代、アメリカ合衆国のフロイド博士は、月のティコクレーターで発掘した謎の物体「モノリス」を極秘に調査するため月面基地に向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは強力な信号を木星に向けて発した。
18ヶ月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員はデビッド・ボーマン船長ら5名の人間(うち3名は人工冬眠中)と、最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。
順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、今回の探査計画に疑問がある事を打ち明ける。その直後HALは船の故障を告げたが、実際には故障していなかった。2名の乗組員はHALの故障を疑い、思考部の停止について話し合うが、それを知ったHALは乗組員達を殺害する。唯一生き残ったボーマン船長はHALの思考部を停止させたあと、モノリスの件や探査の真の目的を知ることになる。ボーマン船長は一人で計画を遂行、木星圏内で巨大なモノリスと出合い、驚愕の体験を経て人類より進化した存在・スターチャイルドへと進化を遂げる。
初めてこの映画を見たときから、「この映画は、ほかのどの映画とも似ていない」という強い印象を受けました。それは、監督のクーブリックが、説明的なシーンやナレーションを一切排除して、神秘的で多義的な映画作りをしたことによっているのですが、それ故に、私はこの映画に「ヒーローの旅」の構造を当てはめる、という発想を持ちませんでした。まさか、「スターウォーズ」や「ナウシカ」と同じ構造に収まる、とは考えつかなかったからです。
ところが、昨日DVDを見直して、ふと「ヒーローの旅」を当てはめたらどうなるか、と考えてみたとき、たちまちにその枠組みに収まってしまうことに気がついたのです。
気がついてみて、改めて、それは当然のことだ、と思い当たりました。クーブリックは、この映画を 2001:a space odyssey と名付けています。「オデッセイ」です!クーブリックは、現代の叙事詩、現代の神話をこの映画で表現しようとしたのです。神話の心理学的分析から生まれた、キャンベルの方法が当てはまるのは、あまりにも自明のことだったのです。
では、「ヒーローの旅」の構造を復習しておきましょう。まず、キャンベルの訳本から引用します。
冒険は上記のダイアグラムに要約できる。
神話英雄はそれまでかれが生活していた小屋や城から抜け出し、冒険に旅立つ境界へと誘惑されるか拉致される。あるいはみずからすすんで旅をはじめる。それでかれは道中を固めている影の存在に出会う。英雄はこの存在の力を打ち負かすか宥めるかして、生きながら闇の王国へと赴くか(兄弟の争い・竜との格闘・供犠・魔法)、敵に殺されて死の世界へと降りていく(四肢解体、磔刑)。こうして英雄は境界を越えて未知ではあるがしかし奇妙に馴染み深い〔超越的な〕力の支配する世界を旅するようになる。超越的な力のあるものは容赦なくかれをおびやかし(テスト)、またあるものは魔法による援助をあたえる(救いの手)。神話的円環の再底部にいたると、英雄はもっともきびしい試練をうけ、その対価を克ちとる。勝利は世界の母なる女神と英雄との性的な結合(聖婚)として、父なる創造者による承認(父との一体化)として、みずから聖なる存在への移行(神格化)として、あるいは逆に---それらの力が英雄に敵意をもったままであるならば---かれがいままさに克ちうる機会に直面した恩恵の椋奪(花嫁の椋奪、火の盗み出し)としてあらわされうる。こうした勝利こそ本質的には意識の、したがってまた存在の拡張(啓示、変容、自由)にほかならない。のこされた課題は帰還することである。超越的な力が英雄を祝福していたのであれば、かれはいやまその庇護のもとに(超越的な力の特使となって)出発するし、そうでなければかれは逃亡し追跡をうける身になる(変身〔をしながらの〕逃走、障害〔を設けながらの〕逃走)。帰還の境界にいたって超越的な力はかれの背後にのこらねばならない。こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(霊薬(エリクシール))。
(訳書・下・六五~六六頁)
Voglarのヴァージョンを私的にまとめたものも、示しておきます。
「普通の生活」をしている〈ヒーロー〉が、ある日、異界の〈使者〉から「冒険への呼び出し」を受ける。〈ヒーロー〉は一旦この「呼び出しを拒絶する」が、老人の〈助言者〉に導かれ、励まされ、力を授かり、旅立つのである。〈ヒーロー〉は「最初の関門」にさしかかり、〈関門の番人〉に「試練」を与えられる。それらの過程で、〈味方〉と〈敵〉が明らかになっていく。〈敵〉は、〈ヒーロー〉を呪い、苦しめようとする〈影〉の部下であったり、〈影〉そのものであったりする。〈トリックスター〉はいたずらや失敗で〈ヒーロー〉たちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気づかせる。〈変貌者〉は〈ヒーロー〉にとって異性の誘惑者で、〈ヒーロー〉は彼/彼女の心を読みとることが出来ず、疑惑に悩まされる。やがて〈ヒーロー〉は「深奥の洞窟への侵入」を試み、「苦難」をくぐり抜け、宝の「剣(報酬)をつかみ取る」。〈ヒーロー〉は「帰還への道」をたどるが、その途上で死に直面し、そして「再生」を果たす。その後「神秘の妙薬を携えて帰還」するのであった。
「ヒーローの旅」を「2001年」に当てはめようとするとき、まずとまどうのは、この映画の「ヒーローとはだれなのか?」という疑問に直ちにぶつかるからです。この映画には、意識的に、いわゆる普通の意味でのヒーロー、あるいは、観客の自己同一化の対象としての主人公が排除されています。第1部「人類の夜明け」に出てくるのは、毛むくじゃらのヒトザル(とバクとヒョウ)だけで、個体識別すらできません。第2部はフロイド博士と他の研究者たち、第3部~第4部はボーマン船長、プール副船長、コンピュータのHAL 9000で、しかも、ニュース映像かドキュメンタリー・フィルムのような感覚で淡々と取られている上、どれも「花」のない地味な俳優たちばかりなので、感情移入のしようがないのです。唯一、第3部インターミッションの後の緊迫した場面では、ボーマン船長に感情移入してサスペンスが感じられますが、第4部の驚くべき展開の中で、その感覚も裏切られます。
結局、この物語におけるヒーローは、「種としてのヒト」と考えざるを得ません。つまり、ヒトザルが道具を得てヒトとなった時に冒険が始まり、やがて木星へと旅立ち、そして神性を得て(スターチャイルドとなり)地球へと帰還する。そのような旅路を歩むのは「種としてのヒト」であり、従って、個々のヒトザルや、フロイド博士やボーマン船長はその表現形でしかない。だからむしろ、個としての人格が極力そぎ落とされているのです。そのような、「種としてのヒト」の物語に同調できるかどうかで、この映画への評価が大きく変わるでしょう。同調できる観客は、今までに味わったことのない、大きな一体感と高揚感を得ることができるでしょうし、そうでない観客には、退屈で意味不明な出来事の羅列にしか見えないでしょう。
このようにヒーローを規定したとき、あとの要素は比較的たやすく見いだすことができるでしょう。Voglarのヴァージョンで言えば、モノリスが〈使者〉であり、かつ〈助言者〉であることは明らかです。モノリスは、ヒトザルに道具の使用を教えます。それは、魔法使いが魔法の杖をヒーローに与えることと、あるいは、オビワン・ケノービがルーク・スカイウォーカーにライト・セイバーを与えることと同じ意味を持ちます。ヒトザルは道具を得てヒトとなり、それは長い旅路の始まりである訳ですが、その旅の過程は、ヒトザルが投げ上げた骨がスローモーションで軌跡を描きながら一瞬で宇宙船へと切り替わる、見事なシークェンスで端的に示されます。
なお、この物語では、「冒険への呼び出し」は二度現れます。一回目は「人類の夜明け」、もう一つは月面でモノリスが発見されるエピソードです。フロイド博士は人類を代表して、モノリスにより、月面へと呼び出されます。フロイド博士は、かつてヒトザルがそうしたようにモノリスに触れ、そしてモノリスは、人類に新しい旅立ちへの道を指し示します。つまり木星への旅です。
宇宙への旅は、空への旅であるにもかかわらず、漆黒の「闇の王国」、「死の世界」への旅と言っていいでしょう(しかも船には、三つの棺のようなカプセルの中で生きながら死んだように眠っている三人の乗組員が同乗しています)。難しいのは、やはり、HAL 9000の「反乱」あるいは「発狂」の意味づけです。映画を見た人々の間でさまざまに異なる解釈や意見が交わされているのも、この部分です。ここではとりあえずHALは、〈関門の門番〉(gate keeper)と見ておけばいいでしょう。ボーマンがHALの機能を弱めたとき、星への関門 (star gate)が開くのですから。そしてここでも、モノリスが導き手として、宇宙空間を跳梁します。
ボーマン船長の最後の旅は、まさしく、「深奥の洞窟への侵入」です。地獄めぐり、と言うべき映像がスクリーン上に氾濫します。その果てにたどりついた「白い部屋」は、「苦難」とはほど遠いイメージですが、それゆえに見ている人にショックを与えます。鬼才クーブリックの面目躍如です。船長はそこで急速な老いと死を迎え、そしてスター・チャイルドへと生まれ変わり、地球へと帰還します(こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(妙薬))。
こうして見ると、「2001年」は、神話よりも神話らしい、壮大で神々しい、21世紀の神話であることが分かるでしょう。衝撃的で、それまで誰も見たことのない、圧倒的な映像美を持ちながら、全ての人が心の中に共通して持つ、物語の祖形をその構造として持っている故に、「2001年」は名作としての永遠の生命を得たのです。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
今日は仕事をしながら、「2001年宇宙の旅」のDVDをちらちら見ていました。
この映画については、たくさん言いたいことがあるのですが(生涯ベスト1映画です)、やはり未だにその特殊効果のみごとさに息を呑みます。
特に好きなのは、J. シュトラウスの「美しく青きドナウ」に乗って、フロイド博士の乗った旅客船が地球~宇宙ステーション~月に飛行するシーンです。球形の船が月面に降りていく時のコクピットの映像、ドーム型の屋根がゆっくり開き、着陸台に降り立った船が、着陸台ごとエレベータ式に地下の格納庫に降りていくシーンなど、見ているだけでどきどきします。SF好きの子供にもどってしまう瞬間です。
しかし、50歳の大人になってこのシーンを考えてみると、たちまち現実に引き戻されて、いろいろ考え込んでしまいます。例えば、月面に、こんな巨大な建造物を造ることが、われわれに可能なんだろうか、とか。
こういう月面基地を作るためには、大量の建築資材や工事車両と人的資源が必要ですよね。月に資源があるならともかく、そうでなければ、すべて地球から運ばなければなりません。しかも、全て地球仕様ではなく、月面仕様にしたものです。工事に携わる人間も、長期間、月面に滞在するわけで、そのための宿泊施設を建築しないといけないし、食料その他の資源も大量に必要です。そのような運搬が、はたして可能なのでしょうか。今の技術では、数人の人間を月面に送るだけでも、アメリカが国家の威信を懸けてやっと実現する程度なのに(人類の月面着陸は、「2001年宇宙の旅」が公開された1968年の翌年のこと。アメリカのアポロ計画により、都合6回、月面探査を果たしました。)。
そう考えていくと、こんな立派な月面基地の建築は、2001年はもう過ぎてしまったとして、あと10年たっても20年たっても難しいように感じられます。少し悲しくなってきます。
まあ、人が月面で暮らす前に、地球で人間が暮らし続けていけるかどうか、そちらの方が心配になってきた昨今ではありますが。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
言語の意味は少しずつ、あるいは急速に変わるのが常ですが、人を評価する語で、最近随分意味が変わってしまった語があります。次の文例を見たとき、世代によって受け取り方が変わってくると思います。
その1:キレる
(例1)あの人、結構キレるんですよね~
上の世代の人は、「あの人」は(1)頭のいい、優秀な人と受け取る割合が高いでしょうが、若い世代の人は、「あの人」のことを(2)気の短い、扱いにくい人と受け取るでしょう。
つまり、「きれる」というのは頭の働きが鋭いことを言う言葉だったのに、最近では、怒りに駆られて平常心を失う様子を現す言葉として使われることが多くなったからです。「ぶち切れ」などという言い方もありますね。
その2:ひかれる
(例2)Aさん「私、10分話しただけで、Bさんにめちゃくちゃひかれてしまいました。」
上の世代の人は、(1)AさんはBさんに好意を持ったと受け取りやすく、若い世代の人は、(2)AさんはBさんに「変な人だ」と思われた、と受け取りやすいのではないでしょうか。例えば、Aさんがオタクっぽい趣味のことを熱っぽく語ってしまったとか。
これは、「(こころが)惹かれる」という用法が昔からいあった一方で、最近、「引く」という動詞に、「人の言動に異様さを感じて、尻込みする/テンションが下がる」といった意味が生じてきたためと分析できます。「どん引き」という言葉も、テレビでよく耳にします。
この記事を読んだあなた、例文を見てどちらの解釈が頭に浮かびましたか?
| 固定リンク
| コメント (8)
| トラックバック (0)
今朝のNHK ハイビジョンで、グレゴリー・コルベールの Ashes and Snow を紹介していました。
15年かけて取りためた映像詩で、人間と動物の、信じられないコラボレーションが美しいビジョンとして表現されています。
これほど、「癒やし」ということばにふさわしい映像はないかもしれません。
ホームページがありましたので、ご参照下さい。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
友人と食事していたとき、一人の女性が、
「私は、驚いても『きゃーっ』って言わない。『おっ』としか、声が出ない」
と言っていました。そういえば、我が家の二人の女性も、「きゃーっ」って叫ぶのを聞いたことがありません。娘は、私がトイレに入っている時、間違ってドアをあけて、
「おおっ!!」
と言ってました。
しかし一方で、「きゃーっ」と叫ぶ女性も、知人でいます。そういう人は、もともと声帯が細くて、全体に声が高いです。
日本人全体に、声が低くなっている(特に女性)という記事をどこかで見たことがあります。そのせいかもしれません。ちなみに、さるブログのコメント欄で、
広子 『SK-II様:
きゃーっ★☆ すみません!!
そっこく修正します!! ありがとうございます!!』
という書き込みを見ましたが、この「広子」さんも、現実には「きゃーっ」というタイプの人ではありません。
現実には、「きゃーっ」とか「きゃっ」とかいう女性の叫び声は、少なくなっているのだろうと思いますが、未だに女性性の表現としては生き延びているのでしょう。
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (0)
最近のコメント