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2012年5月14日 (月)

仰ぎ見る我が師

『国語と国文学』第89巻第2号、pp. 75-76(編集者:東京大学国語国文学会、編集:明治書院「国語と国文学」編集部、発行:株式会社 明治書院)に掲載された拙文です。2011年4月になくなられた恩師築島裕先生への追悼文です。

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 仰ぎ見る我が師

金水 敏

 築島裕先生の研究者としての傑出したご業績については既に多くの方が述べられ、私が付け加えるべき点はほとんどないでしょう。私は、身近に接した先生の教育者としての面を中心に、先生の思い出について書き記したいと思います。

 私は昭和五〇年に文科三類に入学、五二年に国語学に進学しました。築島先生のご講義は「本邦文字史研究」という続き物で、私が進学して最初に聞いた授業で既に二十数回目に達していたと思います。特に導入の授業はなかったので、「央掘魔羅経」「羅摩伽経」など始めて耳にするお経の名前が次々と登場し、書誌とヲコト点・仮名字体等の訓点についての情報が列挙されるという極めて専門的な内容で、正直当惑しました(しかもその授業は教職の「書道」を兼ねていたので、国語学以外の学生も多く受講していました。大変さという意味では、国語学以外の受講者も私も、初心者という意味でそう違いはなかったとは思いますが)。

 このように、いかにも東大の専門の授業らしい、あまり初心者にやさしくない授業をなさるという点で教育的配慮に欠けているのではないかと感じたこともあったのですが、大学院に入ってまったく認識が塗り替えられました。資料の輪読の講義であっても先生は一切手を抜かれることはなく、学生が調べるべきことがらを先回りして遥かに精密に調査を済ませられていました(月本雅幸氏によると、年度の初めに資料のおおよその調査は終わらせられていたらしいとのことです)。具体的な例を挙げると、『七喩三平等十無上義』という資料を読んでいた年、私の担当に『法華玄賛』からの引用らしい箇所があり、引用元と付き合わせる必要が出てきました。私は発表に備えて図書館に籠もり、『大正新脩大蔵経』の「妙法蓮華経玄賛」を最初から最後まで少なくとも五回は目を通しましたが、該当箇所が見つかりませんでした。しかたなく、次の発表で「引用箇所は見つかりませんでした」と報告すると、築島先生は、「そうですか、私が見た限りでは、少なくとも三箇所該当する部分がありましたよ」とにこやかにおっしゃいました。それを聞いて、私はもちろん、受講者一同が仰天しました。私は明らかに引用箇所を見落としていたわけですが、そのことをなじる調子は一切ありませんでした。そうであるからこそ、先生の調査力のすごさがしみじみと学生一同に伝わりました。なるほど、大学院の先生とはこうあるべきかと深く感銘を受けたのですが、当時の築島先生の立場にある今も、先生のまねが一度もできた試しがありません。授業はいつもばたばたとその場しのぎの連続で、大変恥ずかしいことです。

 昭和五七年、私は幸いにも国語研究室の助手に採用され、築島先生と私の関係はそれまでの教授と学生から、職場の同僚同士の立場に変わりました。立場が変わると、築島先生が学生に対して想像以上に細やかな配慮をされていたことを知ることができました。また、同時期に高山寺転籍文書綜合調査団にも加えていただきましたが、そこでは、お寺様との良好な関係を保ちながら、団員に対してはリーダーシップを発揮し、大規模な調査をまとめ上げていく手腕をつぶさに見させていただくことができました。その経験は、今でも自分自身の研究室や共同研究等をまとめていく際に役立っているように思われます。知らず知らず、「こんなときに、築島先生ならどうされるだろう」と考えている自分に気づき、あるいは考えるまでもなく先生の姿勢が自分の中に内面化されているのではないかと思いもします。

 このように築島先生は、教育・研究・管理のさまざまな面で私にとって遥かに仰ぎ見る師であり先達です。先生は、未だに日々私をお導き下さっていると感じております。改めまして、築島裕先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(きんすい さとし 大阪大学大学院文学研究科教授)

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