卒業・修了セレモニー式辞
文学部・文学研究科卒業セレモニーで、文学部長・文学研究科長として式辞を読みました。急いで作ったので推敲も十分ではなく、また私の人文学観にはさまざま異論もあるかもしれませんが、とりあえず記録の意味で掲載しておきます。
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式辞
金水 敏
2017年3月22日
みなさま、本日はご卒業・修了まことにおめでとうございます。これから卒業証書、学位記を受け取られるみなさまにおかれましては、これまで大阪大学で過ごされた日々のことを懐かしみ、またこれから進まれる就職、進学等について希望と不安に胸を膨らませていらっしゃることと思います。
さて、ここ数年間の文学部・文学研究科をめぐる社会の動向をふり返ってみますと、人文学への風当たりが一段と厳しさを増した時期であったとみることが出来るでしょう。平成25年から26年にかけて、全国国立大学で「ミッションの再定義」ということが行われましたが、文部科学省からの書き込みとして、人文社会科学系の部局に対し、組織再編・縮小を含む整理の方向が示され、「文系切り捨て政策」と騒がれたことは記憶に新しいところです。また産業界関係者の一部から「税金を投入する国立大学では、イノベーションにつながる理系に重点を置き、文系は私学に任せるべき」との発言もなされていると報道されています。
これらの、文系全般に対する社会の風当たりは、むしろ皆さん一人ひとりにとっても身近な体験としてあったのではないでしょうか。すなわち、「なんで文学部に行くの」「文学部って何の役に立つの」等々と言った問いを、友人、親戚、場合によってはご両親というような身近な人々から受けた経験を持つ方は、ここにいらっしゃる皆さんの中にも決して少なくないのではないでしょうか。これを例えば「医学部」「工学部」「法学部」「経済学部」といった学部に置き換えた場合、その答えにくさという点で「文学部」の場合、答えのむずかしさが格段に違うということは明らかです。すなわち、医学部は人が健康で生活できる時間を増やすという目的を持っています。工学部は、便利な機械や道具を開発することで生活の利便性を増すという答え方ができるでしょう。また法学や経済学は、法の下での公正・平等な社会を実現したり、富の適正な再配分を目指したりなど、社会の維持・管理に役立つと答えられます。
では、文学部で学ぶ哲学・史学・文学・芸術学等の学問を学ぶことの意義は、どのように答えたらよいのでしょうか。少なくとも、教員や研究職や出版社等を除いて、多くの皆さんが就かれる職業にも直接の関係を持つ部分は、先に挙げた学部よりはるかに少なそうです。つまり、文学部で学んだ事柄は、職業訓練ではなく、また生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接結びつく物ではない、ということです。
この問題について、私は今のところ次のように考えています。文学部で学んだことがらは、皆さんお一人お一人の生活の質と直接関係している、ということです。私たちは、生きている限り、なぜ、何のために生きているのかという問いに直面する時間がかならずやってきます。もう少し具体的に言えば、私たちの時間やお金を何に使うのかという問いにも言い替えられますし、私達の廻りの人々にどのような態度で接し、どのような言葉をかけるのかという問いともつながります。逆に大きな問題に広げれば、日本とは、日本人とは何か、あるいは人間とはどういう存在なのか、という問いにもつながるでしょう。文学部で学ぶ事柄は、これらの「なぜ」「何のために」という問いに答える手がかりを様々に与えてくれるのです。いや、むしろ、問いを見いだし、それについて考える手がかりを与えてくれると言う方がよいでしょう。
これらの問いには、簡単に与えられる答えはありません。一生かかっても解けないかも知れないし、むしろ何十年、何百年、何千年かかっても解けない問題なのだと言うべきかもしれません。もちろん、こういった問いとは無縁な生活を送ることも、今の日本ではたやすいと言えるかもしれません。美味しい食事、楽しいエンターテイメント、快適な生活環境の中で生活している限り、このような問いはむしろ不要であるようにも見えます。
しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます。今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます。恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です。その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。
今申し上げたことが、直ちに皆さんの腑に落ちたかどうかは分かりませんが、文学部の学問は日持ちがする、一生分、あるいはそれより遙かに長い時間効き目が続く、賞味期限が続くということは保証いたします。文学部の学問は、例え企業に就職しても、家庭に入ったとしても、一生続けることができます。お金はあまり要りません。エネルギーもさほど使わないので、エコであるとも言えます。少しの書籍と、考える頭さえあれば、たいてい間に合います。皆様どうぞ、大阪大学文学部・文学研究科で学んだことに誇りを持ち、今後ともすばらしい人生をお過ごしいただきますよう、心からお祈り申し上げます。以上をもちまして、本日の式辞とさせていただきます。
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コメント
文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私も思います。私の尊敬する師も同様のことを言っていました。今では全部暗記しています。
現代科学では人間の固有性をゲノムに求めまずが、それは科学が物質を扱う学問だからでしょう。それゆえ、人間の精神というものも物質的に扱わざるを得ず、SR系などの刺激反応と学習というもので組み立てようとしているように感じます。
確かにそれによって肉体の固有性と個性というものの説明はつきそうですが、その分析に際してはあまりにも膨大な変数を扱うために、解析に至れていないのが現状でしょう。
現代の学問全般の基礎に通底している科学というものは人間を語るにはあまりにも貧弱なものだと思います。数学的にも、科学の限界は証明されてもいるそうです。アロウやゲーデルなどによってです。
古来から文学の必要性は言われて来ています。それは明らかです。なぜなら、それは人間にとって有用性を与え続けてきたからだと思います。
全ての人間の文化と言うものはそういうものではないでしょうか。歴史的淘汰を経て、膨大な時間と人間によって確認された確固たるもの。中でも優れた文化を芸術と呼び、文学は紙という媒体に記すことが出来たからこそ、数多くの人間に与えることが出来るので、重宝されたと言えます。
ここで、文学とはどのような芸術なのかとの疑問が湧きます。
人間の思考は言語を以って行われるため、文字によって様々な概念を伝えることが出来るので、本というものが有用なのは確かです。
その中で文学は、「人生」というものを表現したもののことだと私は4年間の学部での学びを通じてそう信じています。
人間が人間らしく生きる道を人生と呼ぶとすれば、いい人生を歩むには、いい人生を学ぶ必要があります。
本が今ほど大衆に普及していない時代には、人々は賢人、教養人から「いい人生」を学びました。どこにでもそういう人がいました。
また、社会思想、道徳律というものが整えられ浸透していて、誰もがそれにあわせることでいい人生を送れました。
例えば西洋ではキリスト教が人々を支えていたのであり、日本では武士道を中心に先祖崇拝、仏教儒教というものがそれでした。
一方で貴族たちは膨大な文学に触れることが教育の中心でした。貴族の城には必ず巨大な書庫があり、万巻の書物がありました。
そして現代では賢者も教養人があまりいないので、だからみんなが悩み苦しむ社会になっています。宗教も道徳も薄くなっています。
だから現代ほど文学を必要とする時代は無いと思います。
これがどういうわけか、反対にみんなが文学から離れる傾向が顕著になってきているように思います。
この根源は現代民主主義というものにあるでしょうが、現代人は自分を中心に物事を考える思想を植えつけられています。
何でも自分で考えようとするため、先人の莫大な知恵を知ろうともしない。だから当然苦しむことになります。わかってないのです。
英語を読み書きできる人間になろうと思ったら、自分で考えたってダメなはずです。自分の中には何も無いのですから。誰かに教わるか、本を読んで勉強するしかありません。当たり前です。
人生も全く同じです。いい人生なんてもういくらでも文学の中で語られています。何でそれを知ろうとしないのか、スマホばかりいじる周りの同級生雨や友人を傍目に、私には不思議でしょうがありませんでした。
こうやって断言すると嫌われるので普段こんなことは口に出しませんでした。学校や大学でも自分の解釈なんてもので片付けようとしているからダメだと思います。いつまでも文学の価値を知ることが無い。
文学の意義については、本来もう考える必要の無い事柄なのです。歴史的に価値はもう決まっているからです。
偉人の研究でもすればいくらでもわかります。文学を愛好してない偉人は歴史上にいません。どんな道でも一流の人間は全員文学を愛好しています。
自分というものが経験の積み上げなんだと認識・理解すれば、すぐにわかる問題だと思うのですが。
投稿: H.W | 2017年3月29日 (水) 02時12分
H. Wさま、コメントありがとうございます。
投稿: Skinsui | 2017年3月29日 (水) 07時50分
素晴らしい。ありがとうございます。
投稿: DY | 2017年7月24日 (月) 18時08分
DYさま、
ありがとうございます。
投稿: 金水 敏 | 2017年7月25日 (火) 11時02分
私は、阪大工学部出身者(国内外、20カ国以上で仕事をしてきたマネジメントコンサルタント)ですが、金子先生の式辞を読んで、思い出したことがあります。
それは、地方国立大学の理系学部長との会話でしたが、地方国立大学の文科系学科を大幅に縮小しようという最近の文部省の政策への厳しい批判でした。
この学部長(女性)の専門は、異文化コミュニケーションでしたが、理系の学部長が、文化系の専門と言うのは、私には、納得いくものなのです。
私は、工学部の卒業ですが、シェル系の石油会社に入り、最初に気付いたこととして、大学で学んだことがあまりに国際レベルでアカデミックだったことでした。
他方、同じ会社で地方国立大学出身者は、工場の現場で活用できる知識を学んでおり、文部省が目指す、すぐ役立つ領域中心なのです。
今、考えると、私の強い点は、文学部もある総合大学で学べたことだったと思います。
(もっとも、大阪大学は、世界の学術的な先端を目指しているのですから、多分、どの理系学科でも現場の技術者になると、ほぼ同じ状況かも知れません。)
10年間の石油会社での技術関係の仕事をしていた中でも、文学部が中心に扱う内容は、非常に有用なものだと言わざるを得ません。
大学時代の英語会話の習得は、教養課程に英語会話のコースがあったことも貢献しています。
また、地方工場は、自分とは境遇の異なる学歴の人たちが多いのですが、人間関係がスムーズにできたことは、私には、文学的素養によるものだったと思います。
それは、文学を通じての様々な社会への理解であり、身近にないような境遇に生きる人々の心への理解です。
私は、中学生の頃からロシア文学に触れました。トルストイ、ゴーリキー、チェーホフなどですが、そこから得たロシア人の心への理解が、その後(50歳代になり)の旧ソ連地域+(ロシア、カザフスタン、モンゴル)での市場経済化のための事業再生などの仕事に大いに役立ったのです。
工学部での学習だけなら、現在見える現象を平面的にとらえ、理解しようとしたでしょうが、世界史の流れの中でとらえる旧ソ連社会への理解は、文学部で扱う史学的な視点ではないでしょうか。(ドイツ語を取るべき化学系だったので批判されましたが、クラスでただ一人選択したロシア語も役だちました。)
大阪大学で、私は、喜多流能楽研究会に属し、卒業時、能「小鍛冶」のわき
(https://www.youtube.com/watch?v=iqqf9F1aGFY)
を演じましたが、6百年以上続く日本の伝統芸能への直接的な体験が、日本文化とか日本人への理解となり、そのことが、海外でのコンサルタントとしての指導力にもなっているような気がします。
長くなりますので、割愛しますが、海外の仕事で、うまくいかない原因の一つには、現場のリーダーシップやマネジメントの問題があります。
他の旧帝大の教授と、そのようなことを議論していたら、
「そうですね。問題の解決には、教養が必要なんですよ!」と言われました。
この教授は、外国出身の方で今は、日本人に帰化されている方でしたが、
寅さん映画で「あんた、さしずめ、インテリだね。」と言う言葉の裏にある「やはり、教養って必要なんだよ。」ということを強く言われたような気がして驚いたものです。
文学部の意義?と聞かれれば、
「それは、教養の基礎のようなものを、そこで学ぶ文学部学生だけにでなく、工学部他の実学的学部の関係者全体に与えるものだ」と思います。
文部省が文科系学科を軽視するようになったとすれば、それは、関係者の「無教養さによる」ものと言えば、言い過ぎでしょうか? (笑)
それは、ツール(教養という)のない人たちには、ツールの価値が分からないからではないでしょうか。
また、それは、メディアの影響で世界全体が教養を評価しない方向に向かっていることと関係しているのかも知れないと思います。
投稿: 渡辺穰二 | 2017年7月29日 (土) 19時38分
渡辺さま、ありがとうございました。
投稿: 金水 敏 | 2017年7月29日 (土) 21時11分
約3年前、金水先生の式辞のニュースを偶然読みました。そこには、当時の私には言葉にまとめることができなかった思いが、ほぼ全て書かれていました。
人生の岐路に初めて立ち、八方塞がりのような状況となってジタバタし尽くしたのち、初めて本を手に取り、何故本があるのか、何故本を読むのか、少しだけわかったような気がしました。
その後、次々と読んでみたい本に出会い、また図書館の偉大さを実感し、新たな喜びを得ながら着実に自分を取り戻していくことができたと思います。
3年経った今、改めてこの式辞を読みたいと思い、先生のブログに辿り着きました。
遅咲きながら文学に出会えて良かった!
これからも一生続けていきます。
ありがとうございました。
投稿: 雅子 | 2020年2月 3日 (月) 01時19分
雅子さま、
うれしいお言葉ありがとうございます。これからも、文学が雅子さまの人生の力となりますように。
投稿: 金水 敏 | 2020年2月 3日 (月) 07時33分
数十年前、待兼山で時を過ごしていた理系人間です。
技術部門で働いて参りました。その間、迷うことばかりでしたが仕事の特性上西洋との違いを認識せざるを得ないことが多々あり、逆にそれゆえ長年同じ仕事を続けて来れたという感じがあります。
そして、その「西洋と我々の違い」というものに最初に出会ったのがイ号館大講堂での教養時代に受けた日本近代史の講義です。
どういう訳だか、その授業での先生(お名前失しています)の言葉を未だに覚えています。「イ号館のこの部屋の天井は高くて素晴らしい。これが西洋の考え方なんです。日本は玉砂利の精神です。違いを認識してください」だったか。
彼我の違いはあり、近代に始まる科学技術によって現代社会が動いている以上、それを生み出した西洋の考え方をよく理解することは必須に思っています。
今まさに、西洋近代科学技術が産み落としていまった気候変動問題との戦いの戦列の末端で仕事をしていますが、彼らの文化を理解しておかないと我々の進むべき道を見失うのでは、と感じています。
そういった意味で、我々日本人としての(西洋をみる)人文科学の研究や学問は、理系技術系にとって非常に重要なことだと痛感しているところでございます。
長々失礼いたしました。
投稿: 日光太郎 | 2020年10月10日 (土) 17時14分
貴重なコメント、ありがとうございます。
投稿: 金水 敏 | 2020年10月12日 (月) 06時28分