日記・コラム・つぶやき

2017年8月21日 (月)

卒業式の式辞・余話

メールを整理していて思い出したことがある。この3月の卒業式で、聴覚障害のある卒業生から、事前に式辞の原稿を渡してほしいとの申し入れがあった。みんなと同じ空気の中で、卒業式の感動を味わいたいのだという。

私はこういったイベントのスピーチで原稿をつくることはあまりなくて、当日までにざっくりとプランを立てておいて、その場で文章を作りながら喋るのが普通である。今回もそうしようと思っているところにその申し出があって、正直めんどくさいなと思いつつ、事前に原稿を作ることとした。

原稿を作るとなると、それなりに推敲をして整った文章にしようと思う心理が働いて、山場を作ったり、修辞に気を配ったり、まあかっこつけた文章に結果としてなってしまった。 せっかく作った原稿なので、一度の式辞で捨ててしまうのは惜しいとのケチな思いから、ブログにあげた。それがツイッターで取り上げられ、今回のちょっとした騒ぎになったわけだ。

学生からの申し出がなければ、またあっても請けなければ原稿さえ作らなかったし、当然ブログの記事にもならなかったし、Yahoo news に上がることもなかった。人生の出来事はみな不思議の糸で繋がれている。

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2017年3月22日 (水)

卒業・修了セレモニー式辞

文学部・文学研究科卒業セレモニーで、文学部長・文学研究科長として式辞を読みました。急いで作ったので推敲も十分ではなく、また私の人文学観にはさまざま異論もあるかもしれませんが、とりあえず記録の意味で掲載しておきます。
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式辞

金水 敏

2017322

 

 みなさま、本日はご卒業・修了まことにおめでとうございます。これから卒業証書、学位記を受け取られるみなさまにおかれましては、これまで大阪大学で過ごされた日々のことを懐かしみ、またこれから進まれる就職、進学等について希望と不安に胸を膨らませていらっしゃることと思います。

 さて、ここ数年間の文学部・文学研究科をめぐる社会の動向をふり返ってみますと、人文学への風当たりが一段と厳しさを増した時期であったとみることが出来るでしょう。平成25年から26年にかけて、全国国立大学で「ミッションの再定義」ということが行われましたが、文部科学省からの書き込みとして、人文社会科学系の部局に対し、組織再編・縮小を含む整理の方向が示され、「文系切り捨て政策」と騒がれたことは記憶に新しいところです。また産業界関係者の一部から「税金を投入する国立大学では、イノベーションにつながる理系に重点を置き、文系は私学に任せるべき」との発言もなされていると報道されています。

 これらの、文系全般に対する社会の風当たりは、むしろ皆さん一人ひとりにとっても身近な体験としてあったのではないでしょうか。すなわち、「なんで文学部に行くの」「文学部って何の役に立つの」等々と言った問いを、友人、親戚、場合によってはご両親というような身近な人々から受けた経験を持つ方は、ここにいらっしゃる皆さんの中にも決して少なくないのではないでしょうか。これを例えば「医学部」「工学部」「法学部」「経済学部」といった学部に置き換えた場合、その答えにくさという点で「文学部」の場合、答えのむずかしさが格段に違うということは明らかです。すなわち、医学部は人が健康で生活できる時間を増やすという目的を持っています。工学部は、便利な機械や道具を開発することで生活の利便性を増すという答え方ができるでしょう。また法学や経済学は、法の下での公正・平等な社会を実現したり、富の適正な再配分を目指したりなど、社会の維持・管理に役立つと答えられます。

 では、文学部で学ぶ哲学・史学・文学・芸術学等の学問を学ぶことの意義は、どのように答えたらよいのでしょうか。少なくとも、教員や研究職や出版社等を除いて、多くの皆さんが就かれる職業にも直接の関係を持つ部分は、先に挙げた学部よりはるかに少なそうです。つまり、文学部で学んだ事柄は、職業訓練ではなく、また生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接結びつく物ではない、ということです。

 この問題について、私は今のところ次のように考えています。文学部で学んだことがらは、皆さんお一人お一人の生活の質と直接関係している、ということです。私たちは、生きている限り、なぜ、何のために生きているのかという問いに直面する時間がかならずやってきます。もう少し具体的に言えば、私たちの時間やお金を何に使うのかという問いにも言い替えられますし、私達の廻りの人々にどのような態度で接し、どのような言葉をかけるのかという問いともつながります。逆に大きな問題に広げれば、日本とは、日本人とは何か、あるいは人間とはどういう存在なのか、という問いにもつながるでしょう。文学部で学ぶ事柄は、これらの「なぜ」「何のために」という問いに答える手がかりを様々に与えてくれるのです。いや、むしろ、問いを見いだし、それについて考える手がかりを与えてくれると言う方がよいでしょう。

 これらの問いには、簡単に与えられる答えはありません。一生かかっても解けないかも知れないし、むしろ何十年、何百年、何千年かかっても解けない問題なのだと言うべきかもしれません。もちろん、こういった問いとは無縁な生活を送ることも、今の日本ではたやすいと言えるかもしれません。美味しい食事、楽しいエンターテイメント、快適な生活環境の中で生活している限り、このような問いはむしろ不要であるようにも見えます。

 しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます。今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます。恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です。その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。

 今申し上げたことが、直ちに皆さんの腑に落ちたかどうかは分かりませんが、文学部の学問は日持ちがする、一生分、あるいはそれより遙かに長い時間効き目が続く、賞味期限が続くということは保証いたします。文学部の学問は、例え企業に就職しても、家庭に入ったとしても、一生続けることができます。お金はあまり要りません。エネルギーもさほど使わないので、エコであるとも言えます。少しの書籍と、考える頭さえあれば、たいてい間に合います。皆様どうぞ、大阪大学文学部・文学研究科で学んだことに誇りを持ち、今後ともすばらしい人生をお過ごしいただきますよう、心からお祈り申し上げます。以上をもちまして、本日の式辞とさせていただきます。

 

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2012年5月14日 (月)

仰ぎ見る我が師

『国語と国文学』第89巻第2号、pp. 75-76(編集者:東京大学国語国文学会、編集:明治書院「国語と国文学」編集部、発行:株式会社 明治書院)に掲載された拙文です。2011年4月になくなられた恩師築島裕先生への追悼文です。

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 仰ぎ見る我が師

金水 敏

 築島裕先生の研究者としての傑出したご業績については既に多くの方が述べられ、私が付け加えるべき点はほとんどないでしょう。私は、身近に接した先生の教育者としての面を中心に、先生の思い出について書き記したいと思います。

 私は昭和五〇年に文科三類に入学、五二年に国語学に進学しました。築島先生のご講義は「本邦文字史研究」という続き物で、私が進学して最初に聞いた授業で既に二十数回目に達していたと思います。特に導入の授業はなかったので、「央掘魔羅経」「羅摩伽経」など始めて耳にするお経の名前が次々と登場し、書誌とヲコト点・仮名字体等の訓点についての情報が列挙されるという極めて専門的な内容で、正直当惑しました(しかもその授業は教職の「書道」を兼ねていたので、国語学以外の学生も多く受講していました。大変さという意味では、国語学以外の受講者も私も、初心者という意味でそう違いはなかったとは思いますが)。

 このように、いかにも東大の専門の授業らしい、あまり初心者にやさしくない授業をなさるという点で教育的配慮に欠けているのではないかと感じたこともあったのですが、大学院に入ってまったく認識が塗り替えられました。資料の輪読の講義であっても先生は一切手を抜かれることはなく、学生が調べるべきことがらを先回りして遥かに精密に調査を済ませられていました(月本雅幸氏によると、年度の初めに資料のおおよその調査は終わらせられていたらしいとのことです)。具体的な例を挙げると、『七喩三平等十無上義』という資料を読んでいた年、私の担当に『法華玄賛』からの引用らしい箇所があり、引用元と付き合わせる必要が出てきました。私は発表に備えて図書館に籠もり、『大正新脩大蔵経』の「妙法蓮華経玄賛」を最初から最後まで少なくとも五回は目を通しましたが、該当箇所が見つかりませんでした。しかたなく、次の発表で「引用箇所は見つかりませんでした」と報告すると、築島先生は、「そうですか、私が見た限りでは、少なくとも三箇所該当する部分がありましたよ」とにこやかにおっしゃいました。それを聞いて、私はもちろん、受講者一同が仰天しました。私は明らかに引用箇所を見落としていたわけですが、そのことをなじる調子は一切ありませんでした。そうであるからこそ、先生の調査力のすごさがしみじみと学生一同に伝わりました。なるほど、大学院の先生とはこうあるべきかと深く感銘を受けたのですが、当時の築島先生の立場にある今も、先生のまねが一度もできた試しがありません。授業はいつもばたばたとその場しのぎの連続で、大変恥ずかしいことです。

 昭和五七年、私は幸いにも国語研究室の助手に採用され、築島先生と私の関係はそれまでの教授と学生から、職場の同僚同士の立場に変わりました。立場が変わると、築島先生が学生に対して想像以上に細やかな配慮をされていたことを知ることができました。また、同時期に高山寺転籍文書綜合調査団にも加えていただきましたが、そこでは、お寺様との良好な関係を保ちながら、団員に対してはリーダーシップを発揮し、大規模な調査をまとめ上げていく手腕をつぶさに見させていただくことができました。その経験は、今でも自分自身の研究室や共同研究等をまとめていく際に役立っているように思われます。知らず知らず、「こんなときに、築島先生ならどうされるだろう」と考えている自分に気づき、あるいは考えるまでもなく先生の姿勢が自分の中に内面化されているのではないかと思いもします。

 このように築島先生は、教育・研究・管理のさまざまな面で私にとって遥かに仰ぎ見る師であり先達です。先生は、未だに日々私をお導き下さっていると感じております。改めまして、築島裕先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(きんすい さとし 大阪大学大学院文学研究科教授)

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2012年5月 3日 (木)

1974年の遠足

高校時代の写真が出てきたのでアップしました。

私が撮っているので、写っていません。

こちらからどうぞ。

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2012年3月31日 (土)

高校のクラス会

3月18日に、名古屋で高校のクラス会をやりました。私は、全日と翌日東京で用があったので、東京・名古屋間の日帰りとなりました。

なぜ名古屋か? 恩師加藤先生が、大学を出られてすぐ赴任され、最初に担任を持っていただいたのが私たちのクラスでした。その後加藤先生はご出身の愛知に帰られて教員をなさっており、このたびご退職ということで名古屋にあつまったのです。出席者は先生をいれて13人でした。

ところが、実は私たちの勘違いで、実は加藤先生は思っていたより2歳年上で、退職後もう2年を過ぎていたことが分かり、大笑い。

場所は、徳川園のきれいなガーデンレストランと、2次会は伏見・広小路のキッチン・マツヤ。名古屋グルメを堪能しました。

写真はこちらです。

同窓生の方にはこのサイトに詳しい報告があります。IDとパスワードは私にお尋ねください。

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2012年1月 4日 (水)

ちょっと遅れの初夢の話

3が日が終わり、今日から出勤しなければならないストレスのせいか、よく見る「~に行こうとしてどうしても行けない夢」を見ました。

 私に与えられたミッションは、「アカペラ・コーラス・グループに参加してアメリカン・スクールで公演を行う、それもジャニーズの「嵐」と競演」というものでした。プログラムは現地で決めると言うことで、しかし私は何一つ歌える気がしません。

 ふりかかったトラブルは「ネクタイがどうしても結べない」というものです。選んだネクタイが見あたらなくて手に持っているのはださいネクタイ、いやだなと思ったら選んだネクタイはもう首にかかっている、むすんでも結び方が悪くてだんごのようになってしまう、奮闘している内に時間が過ぎて、しょうがないからシャツの前をはだけながら外に出て道々結ぶのですが、どうしてもうまくいかない(他にもそういう人がいて、知ってる大学の先生でした[N田Y雄先生])、そのままアメリカン・スクール行きのスクール・バスに乗ったら西洋人の学生だらけ、でも私はまだシャツがはだけたままでネクタイ結び中。「嵐はどうした?」と聞いてみたら、「保安上の理由で別車両で移動」とのことでした...というところで目が覚めました。チャンチャン。

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2012年1月 2日 (月)

お正月の写真

元旦、両親の家に兄弟家族が集合した際の写真です。facebookから。

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2011年9月 6日 (火)

日記まとめ書き 2011年5月~8月(GWのあと)

5月15日(日)
ひさしぶりにマンションの管理組合総会に出席。

5月22日(日)
午後から訓点語学会に出席。大坪併治先生、100歳を過ぎて学会発表。すごい。

5月28日(土)
日本語学会大会に出席。神戸大学国際文化学部で。私の編集した『役割語研究の展開』が書籍売り場に届いていたので初お目見え。

5月29日(日)
日本語学会大会二日目。指導している学生が二人発表。無難に済んでよかった。旧満州の協和語の発表があり、興味深かった。

6月2日(木)
昨年に引き続き、はびきの市民大学に出講。天王寺に出来たショッピングモールに、とてもおいしい洋食屋さんを発見。

6月3日(金)
笑福亭福笑師匠の独演会。高橋先生にチケットを分けてもらう。とても独創的で迫力ある芸風。ゲストの加川良さんの歌は七〇年代の香りがぷんぷん。

6月4日(土)
フロムページという企業の、「夢ナビライブ」というイベントで名古屋へ。受験生相手に模擬授業を行うというもの。コミケみたいな(行ったことないけど)熱気ムンムンの会場で無我夢中で役割語の話を三〇分。後から質問者が2,3人来て、手応えがあったので少し驚いた。

6月10日(金)
総長選挙。押していた先生が敗れて、残念。

6月12日(日)
関西言語学会2日目。昨日はパスしてしまった。司会が当たっていたので。久しぶりの府立大も遠かった。

6月18日(土)
前日から東京泊で、言語学会大会に出席。会場校は日本大学。朝、ホテルの中で思い立って facebook を始める。始めた途端、K木君がチャットで飛び込んできて、「結婚することになりました」と告白。

7月23日(木)
マンガカフェ。鉄道マンガ特集。鉄道マニアたちは熱かった。

7月2日(土)
前日から、マンガ学会大会のために高知市入り。前日は、伊藤さん、表さんらとひろめ市場で楽しく食事。今日は、研究発表と懇親会。

7月3日(日)
朝、ホテルの前で朝市が行われていた。高知ならではの品揃えでおもしろい。シンポジウムでは、長谷川法世先生、こうの史代先生らと親しくお話しすることができた。夜は居酒屋で打ち上げ。地元の方に、高知県民がいかに破滅的な飲み方をするか、しみじみ伺った。

7月10日(日)
「まちかねておはこ祭2011」学生さんたちががんばった手作りイベント。小学生がたくさん来てくれた。ピアノコンサートもあって盛りだくさん。

7月11日(月)
京都大学で試験。行き帰りに時間がかかって大変だったが、今日で終わり。

7月12日(火)
「夢ナビライブ」大阪会場。今日は生徒の反応今ひとつ。

7月16日(水)
土曜ことばの会。自分で久しぶりに発表した。

7月17日(木)
東京・学士会館で築島先生をしのぶ会。会の後、近い学年の人とプチ同窓会。

7月22日(金)
兵庫県立芸術文化センターで、佐渡裕指揮によるオペレッタ「こうもり」鑑賞。楽しかった。

7月25日(月)
天神祭。高島先生のお計らいで、陸渡御を本殿から見せていただく。近くに12年住んでいたのに、祭のことをまったく知らなかったことに気づかされた。船渡御は阪大船でなく、天天船に乗せていただいた。あわや雨かと思われたが天気はもった。しかし奉拝船の運行が全体的にもたついて、大阪締めがあまりできなかったのが残念。

7月28日(木)
国際歴史言語学会のディナーが万博公園迎賓館で行われた。雅楽の演奏があった。

7月29日(金)
国際歴史言語学会の発表を聞く。Frellesvig さんのコーパスについての講演、上野善道先生や窪薗先生のアクセントの発表など。夜、歯医者で親知らずを抜く。

7月30日(日)
Oxford のコーパス・プロジェクトのワークショップを阪大でやった。お弁当や夕食の手配など行う。会場は文11教室。夕食は赤瓦。

8月1日(月)
ワークショップ2日目。会場を待兼山会館に移す。お昼はタローパンのサンドイッチ。近藤さん、小木曽さんの unidic の発表など。

8月2日(火)
集中講義に来られていた井上優さんと、院生とで食事。富山出身の井上さんを、富山料理の「風の盆」にお連れして、よろこんでいただいた。

8月3日(水)
同じく集中講義の今野先生の歓迎会を「楽」で。今野先生の院生と卒業生の方も来ていた。

8月4日(木)
鷲田先生最終講義とパーティ。内田樹先生とお話しすることができた。

8月5日(金)
夜、アートエリアB1で、鷲田先生、小林傳司さんを含むトークイベント。

8月7日(日)
恩塚さんの呼びかけで、在韓日本語教師上方会例会。梅田の居酒屋で。ぼくが名誉会長だそうだ。恩塚先生のご主人と始めてお会いする。

8月8日(月)
息子は、サイクリング部の遠征で北海道に行っている。去年は転倒して途中帰宅した。今年はどうか。

8月18日(木)
岡山・就実大学で、日本語文法学会総務打ち合わせ。4時頃から、土手のビール屋で飲み始め。

8月22日(月)
European Association for Japanese Studies International Conference のために、エストニアに出立。関空から Finnair でヘルシンキへ。 Finnair の機内はデザインがかっこよくておしゃれだが、オーディオの品質が最悪。Helsinki 空港内で荒木先生ほか、日文研のみなさんとごいっしょになる。ホテルがいっしょだったので、Tallinn 空港からは、タクシーに同乗させていただいた。夕食は近くのコンビニでパニーニを立ち食い。ヘーゼルナッツ入り板チョコがおいしかった。
ところで、前日あたりから左膝が痛くて歩きづらいほど。酒の飲み過ぎか。

8月23日(火)
午前中、発表のためのスライド作り。お昼は、旧市街をぶらつき、マクドナルドでハンバーガー。旧市街はプラハに似て、とても美しい中世の町並み。夕方、Bjarke Frellesvig さん、Stephen、Kerri、Zixi とビールを飲み、Bjarke は会議に行ったので残りのメンバーと食事および散歩。チェコ料理らしいレストランに入って食事。おいしかった。

8月24日(水)
午前中は、日文研の妖怪ワークショップ。楽しかった。午後は、全体の基調講演で上野千鶴子先生。その後、自分自身の言語セクションの基調講演。役割語の総括的な話。50人ほど入る教室が満員で溢れた。夜は、近代的な美術館で歓迎会。
ところで、学会の会場係のアルバイト学生に、ゴスロリ少女を発見。金髪・長身でゴスロリ似合いすぎ。

8月25日(木)
朝から研究発表会。池上嘉彦先生の発表、またOxford プロジェクトのパネルなど。夜は旧市街の広場のレストランで食事。

8月26日(金)
今日も研究発表。上野善道先生のご発表など。午後は、漢文訓読資料のパネル。夜は、エストニア劇場でディナー。ハンドベルの生演奏が美しかった。

8月27日(土)
午前中はジェンダー言語学の発表。午後の総会はパスして、土産物の探索。夜は、漢文訓読グループと、イタリアン・レストランで食事。

8月28日(日)
昼頃、漢文訓読グループと空港に向かい、昼食を取る。ヘルシンキからは小助川先生とご一緒する。息子と娘のために、ヘルシンキ空港でブランド品のサイフ購入。関空行きの機内では、映画は見ずに、ひたすら睡眠に努めた。

8月29日(月)
朝9時頃関空到着。暑い。蝉が鳴いていたが、ツクツクボウシが混じっていて、秋の近づきを感じさせた。

8月30日(火)
登校して、岡島先生の言語量プロジェクトの打ち合わせ。

8月31日(水)
赤目で国語学の合宿。お風呂も食事もよかった。台風接近で天気が悪かった。

9月1日(木)
朝から大雨。合宿は昼前で終わり、帰宅。

8月6日(火)
台風が和歌山、奈良の山間部に大変な被害をもたらした。痛ましい。

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2011年5月 8日 (日)

大震災前後・日記まとめ書き(2011年3月)

3月7日(月)
確定申告終了。

3月8日(火)
火曜日は一日中7度台の熱でうごけず、寝ていたた(平熱が5度台なので7度台でもしんどい)。風邪がおなかにきたか。

3月9日(水)
平熱に戻ったので出勤したが、おなかはまだ不調。CD研究会。

3月10日(木)
臨時教授会+教室会議。ドラマ「四十九日のレシピ」

3月11日(金)
これから、石原都知事の出馬会見が始まる、というタイミングで東京のテレビ局が大慌ての映像になる。しばらくして、石巻港に津波が押し寄せ、地獄絵図。

3月12日(土)
T先生の科研の研究会で、Whitman先生と早田先生の発表が予定されていたので行ってみたら、電車動かずキャンセル。夜は、野原さん、上田さん、岡島さんと豊中で食事。時節が時節だけに、今ひとつ心が晴れず。

3月14日(月)
千里高校で講義。昼前後、CSCDで会議。

3月15日(火)
センター長引き継ぎ。夜、教え子のHさんと食事。K高校からこの4月に転出とのこと。

3月16日(水)
センター長として最後の部局長会議。緊急震災対策が議題に出る。

3月17日(木)
最後のCSCD教授会。夜は、リーガ・ロイヤルホテルで留学生パーティ。時節柄、乾杯はなし。

3月20日(日)
教授会。夜は親交会送別会。助教のK君を送るスピーチ。

3月21日(月・春分の日)
川西で、父の誕生日会。仕出しのお弁当で。

3月22日(火)
豊中地区部局長会議。息子は、センバツが行われる甲子園球場に、焼き鳥屋のアルバイト。夜、苦楽園口そばのスンドゥブのお店で、甲南女子大学の渋谷さんの送別会。西田先生ご夫妻とお嬢様もごいっしょに。

3月24日(木)
大阪旋風プロジェクトまとめの会議。テレビではACジャパンのコマーシャルがやたらと流れて、辟易。「楽しい仲間がぽぽぽぽーん」

3月25日(金)
グランヴィアで惜別会。国語学の卒業生はなし(留年組は2名いたが、出席しなかった)。二次会のカラオケは学生の参加が少なく、あまり意味がない気がした。

3月26日(土)
KLS大会実行委員会が神戸松蔭女子大学で。

3月28日(月)
アートエリアB1運営委員会。当初予定されていた打ち上げは、震災に配慮して自粛。

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2011年3月 5日 (土)

早春日記まとめ書き

1月8日(土)
大阪大学国語国文学会総会。実践センターB218。助教のKさんが、この春転出するので、その記念もかねて研究発表。

1月13日(木)
NHKの企画で、白熱教室 in 大阪大学。小林正弥教授とご挨拶する。

1月14日(金)
東京に移動し、夜、I書店で雑誌『B』のための座談会。K大学の Y 先生、N大学の S さん、アメリカ C 大学の W さんとともに。終了後、なつかしい神田神保町の「さぼうる」でウィスキーをいただく。夜は水道橋の高級ホテルに宿泊。

1月15日(土)
飯田橋駅近くで出版社 K 社の編集者と打ち合わせ。そのまま帰宅。

1月19日(水)
「風の盆」でCSCD新年会。

1月22日(土)
土曜ことばの会。はじめて4人発表。夜は、O さんの K 賞受賞記念パーティを石橋で。

1月23日(日)
NB 学会の評議員選挙で神戸大学へ。寒かった。

2月5日(土)
役割語科研のシンポジウム。実践センターB218。どれだけ聴衆が来て下さるか不安だったが、常時40名程度は入っていたと思う。夜は石橋で懇親会。

2月6日(日)
シンポジウム2日目。昨日と同程度の入り。来て下さったみなさま、有り難うございました。

2月11日(金)
東京に移動。雪が降っていた。南柏の駅からバスに乗って、麗澤大学へ。大学内の宿舎にチェックイン。夕食は、明日のシンポジウムの参加者の先生方とお食事。特に、N 先生とは初めてお会いし、親しくお話ししていただいて感激した。

2月12日(土)
N 先生ご退休記念シンポジウム。麗澤大学内のホールで。大変楽しかった。夜、パーティのあと、大学近くの中華居酒屋で二次会。陳麻婆豆腐がとてもおいしかった。

2月18日(金)
アートエリアB1でマンガカフェ。『恋愛の社会学』の谷本さんをお呼びして恋愛マンガ話。

2月19日(土)
昼間、高校の同窓会の理事会。夕方、東京に移動、立川に宿泊。

2月20日(日)
国立国語研究所で言語系学会連合連絡会。夜帰宅。

2月22日(火)
K大学で博士論文の審査。夜、御影駅のそばのお店でごちそうになる。和食のコースでおいしくいただきました。ただしこのお店、2月いっぱいで閉店だって。

2月23日(水)
学科の打ち上げで、石橋の韓国料理店「アリラン」へ。海鮮鍋、チゲ、キンパなどおいしかった。

3月1日(火)
某編集者の方と梅田で打ち合わせ。連載エッセーの相談。

3月2日(水)
助教の K さんの送別会。石橋の焼き肉店の2階、3階を借り切って、40人近くの学生が集まって。凝ったプレゼントが次々出てきて、大いに盛り上がった。最近の学生さんはいろいろ器用にしゃれた物を作るのでびっくり。

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