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2006年7月26日 (水)

リアル鬼ごっこ

ネ言さんが、『リアル鬼ごっこ』の言葉遣いについて、拙著を引きながら批判されている箇所がありますので紹介させていただきます。

2006年7月25日 (火)

エメエ・アンベールの翻訳

拙稿「役割語としてのピジン日本語の歴史素描」*1では、エメエ・アンベール(著)Japon Illustre(eにアクサン)の翻訳として、茂森唯士(訳)『絵で見る幕末日本』*2を使用していました。

こんど、同じ講談社学術文庫から、高橋邦太郎(訳)『続・絵で見る幕末日本』*3が出たので、買ってみたところ、少し驚いたことがありました。先の茂森訳は、1966年に東都書房から出た『幕末日本――異邦人の絵と記録による』を底本としているのですが、この底本は、ロシア語版からの抄訳本だったのです。改めて茂森訳の文庫本の「訳者のことば」を見ると、翻訳までの経過が書かれていました。茂森氏は元ロシア大使秘書で、赴任時代にモスクワで偶然手に入れたロシア語版を、仕事の合間に翻訳したのでした。高橋訳の文庫本は、茂森訳本からもれている箇所を、フランス語版原著から補って訳出したものです。

なお、エメエ・アンベールの(フランス語版)原著の翻訳としては、新異国叢書から高橋邦太郎氏の訳で1969年、1970年に出版されています*4。原著に近いという意味では、新異国叢書版を典拠に用いるべきでした。

*1 金水 敏 (2006) 「役割語としてのピジン日本語の歴史素描」上田功・野田尚史(編)『言外と言内の交流分野:小泉保博士傘寿記念論文集』pp. 163-177 大学書林
*2 エメェ・アンベール(著)・茂森唯士(訳)(2004)『絵で見る幕末日本』講談社学術文庫, ISBN:406159673X
*3 エメェ・アンベール(著)・高橋邦太郎(訳)(2006)『続・絵で見る幕末日本』講談社学術文庫, ISBN:406159771X
*4 高橋邦太郎(訳) (1969) 『アンベール幕末日本図絵 上』新異国叢書, 14, 雄松堂書店1596731
    高橋邦太郎(訳) (1970) 『アンベール幕末日本図絵 上』新異国叢書, 15, 雄松堂書店Htbookcoverimage_1

2006年7月24日 (月)

『海外ミステリ 誤訳の事情』

『と学会年鑑GREEN』*1を読んでいたら、興味深い記事がありました。山本弘氏の報告の一部です。

 最後に、直井明『海外ミステリ 誤訳の事情』(FILE007)*2。タイトル通り、翻訳ミステリに出てくる誤訳を指摘した本です。(中略)
 おかしかったのが「老人言葉ははめてくれ!」というページ。老人だからといって「~なんじゃ」とかいった喋り方をさせるのをいい加減やめろ、という内容です。そんな喋り方する老人なんて現実にいないだろと。同感ですね。
 同じく喋り方の問題で言いますと、ある翻訳ミステリで、「このあたりの地理はまったく知らない。教授、指南役になってもらえますか」と探偵に言われて、老教授が「がってん、心得た」(P149)(会場笑)。いや、ちょっとその口調はないだろうと。(p. 23)

『海外ミステリ 誤訳の事情』さっそく注文しました。

*1 と学会 (2006) 『と学会年鑑GREEN』楽工社、ISBN:4-903063-04-6026800570000

*2 直井明 (2003) 『海外ミステリ 誤訳の事情』原書房, ISBN:4-562036-65-64562036656

2006年7月23日 (日)

ピジン語の生まれる空間

今まで見落としていた論文です。横浜居留地の政治的・経済的背景について、大変示唆に富んだ論文です。

亀井秀雄 (2004) 「ピジン語の生まれる空間―横浜居留地の雑種(ハイブリッド)語」テッサ・モーリス=スズキ、吉見俊哉(編)『グローバリゼーションの文化政治』グローバリゼーション・スタディーズ, 2, 平凡社, pp. 152-203.

ないとエッセー

2003年5月2日、9日、16日にNHK AMラジオで放送された、「役割語の不思議な世界」の原稿です(リンク)。

各回のタイトルは以下の通り。

2003年5月2日:「役割語」とはなにか
2003年5月9日:男のことば、女のことば
2003年5月16日:標準語はヒーローのことば

放送の音源(MP3)への隠しリンクがあります。

2006年7月22日 (土)

増刷

拙著『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003, 岩波書店)の第6刷が、7月に出ます。

丸3年半立ってまだ売れているというのは、大変ありがたいことです。

(ただし、いわゆるちまたの「ヒット本」とは、総部数にして3桁違うので、誤解のありませんように。ああ、あこがれの印税生活!)

ブクログ

こんなサイトを偶然見つけました。トラックバックが「ありません。」と出ていたので、さびしいから張っておきます。

備忘のために

広州広子さんが、広州の日本語の教室で、役割語の授業をしてくださいました。

それから、ネ言さんが、ツンデレ言語論を展開されています。

ポピュラーカルチャー研究

私の関わっております研究グループで、下記のような講演が行われます。

呉智英氏「ポピュラー・カルチャー研究の課題と可能性」

日時:2006年7月8日(土) 15:00~17:00

会場:大阪大学文学部(豊中キャンパス) 文41教室(文法経棟4階)

予約不要、一切無料です。

詳しくは、こちらをご覧下さい(リンク切れご容赦)

呉さんとは、去年朝日・大学パートナーズシンポジウム(朝日新聞が京都精華大学と共催)でご一緒したことがあり、楽しくお話しさせていただきました。

サイボーグ009メモ

018689760000 役割語研究のケーススタディとして、「サイボーグ009」を取り上げたことがあります*1。この作品のキャラクター設定は、様々な関係性が盛り込まれていて、大変おもしろいと思います。マジョリティとマイノリティという観点からキャラクターを分類することを思いついたので、メモしておきます。この場合、マジョリティ/マイノリティとは、社会的に優位/劣位にある(と読者が感じる)という意味で用いています。

ご存じない方のために、この作品の梗概を述べます。

ブラックゴーストという悪の軍団が、世界各国から拉致してきた9 人の男女に、最強の兵士として仕立てるべく改造をほどこし、超人的な能力をそれぞれに与えた。その改造に手を貸したのが、天才的科学者、ギルモア博士であるが、博士は良心の呵責に堪えきれず、9 人と力を合わせて脱出を果たす。その後、9 人のサイボーグたちとギルモア博士は、日常的な世界では、様々な職業について世間の目から逃れる一方で、機に応じて参集し、その能力と知力を結集して、ブラックゴーストはじめ、世界の悪人や、地球をおびやかす超常的な存在と死闘を展開していく。

9人のサイボーグ+ギルモア博士のキャラクター設定は以下の通りです。

001 (本名:イワン・ウィスキー)ロシアの幼児にして天才児、超能力者
002 (本名:ジェット・リンク)ニューヨーク・ウェストサイドの不良少年
003 (本名:フランソワーズ・アルヌール)フランスのバレリーナ
004 (本名:アルベルト・ハインリヒ)東ベルリンの反政府主義者
005 (本名:ジェロニモ・ジュニア)ネイティブアメリカンのカウボーイ
006 (本名:張々湖)中国人の料理人
007 (本名:グレート・ブリテン)イギリスの元シェークスピア俳優
008 (本名:ピュンマ)アフリカの元奴隷、野生動物の監視官
009 (本名:島村ジョー)日本人の母と国籍不明の父との間に生まれた混血児であるカーレーサー、
ギルモア博士 ハーバード大学出身のサイボーグ研究者

まず、性別による分類です。

マジョリティ=男性:003以外の全員
マイノリティ=女性:003

斎藤美奈子氏の言う、典型的「紅一点」構造です*2。

次に、国籍・人種による分類です。

マジョリティ=白人:001, 002, 003, 004, 007, ギルモア博士
マイノリティ=白人以外:005, 006, 008
両義的=009

精華大学の吉村和真さんがおっしゃっているよう*3に、マンガでは、白人の身体=小さい顔、白い皮膚、長い手足、金髪等の身体的特徴が、理想の身体として扱われています。これに対し、黒い皮膚、短い手足・がに股、モヒカン、入れ墨等の特徴は、マイナス的要素として扱われています。009は、西洋人と日本人のハーフで、日本人の心を持ちながら、身体的には白人です。

次は年齢です。

マジョリティ=成人・壮年:002, 003, 004, 005, 006, 008, 009
マイノリティ=幼児・老人:001, ギルモア博士
両義的=007

幼児、老人は、成人・壮年にいたわられ、養育される存在として描かれています。なお007は、見た目は老人に近いのですが、変身能力を持っていて、しばしば小さい男の子として現れます。年齢・世代を越境するトリックスターとして立ち現れています。

このように、重層的な対立軸が仕掛けられることによって、起伏のあるストーリーが紡ぎ出されるわけです。なお、サイボーグ全員が、肉体改造者すなわち異常な身体の所有者として、健常者に対するマイノリティの性格が与えられています。そのため、日常的には自分たちの素性を隠し、一般人として生活しているのです。

その他、例えば002はニューヨークの下町の不良少年、004は東ベルリンの反政府主義者など、マイノリティとしての特徴が個々に与えられている点も注意されます。

*1 金水 敏 (2005) 「近代日本マンガの言語」(Le Langage dans le Manga moderne japonais) 『Le Japon, d'autres visages 日本、もうひとつの顔』pp. 176-186,  阪大フォーラム2004委員会, 21世紀COEプログラム「インターフェイスの人文学」

*2 斎藤美奈子 (1998) 『紅一点論:アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』ビレッジセンター出版局(ちくま文庫に再録、2001年)

*3 吉村 和真 (2005) 「近代日本マンガの身体」(Le corps dans le Manga moderne japonais) 『Le Japon, d'autres visages 日本、もうひとつの顔』pp. 187-198,  阪大フォーラム2004委員会, 21世紀COEプログラム「インターフェイスの人文学」

ローリングストーンズ

昨日お会いした、名古屋のIさんに教えていただいたネタです。

Iさんは、ローリング・ストーンズの来日公演には必ず行かれるそうなのですが、ミック・ジャガーがたどたどしい日本語で、MCをするんだそうです。

はじめのころは、

「ぼくたちはローリング・ストーンズです。次に、『ブラウン・シュガー』を聞いてくださーい」

というような感じだったそうですが、最近は、

「次はおれの歌で、『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』を聞いてくれ」

というような調子に変わったそうです。

原稿を作った日本人スタッフに試行錯誤があったか、それともスタッフが交代したのか分かりませんが、いずれにしても、

「ストーンズは『おれ』でしょう!」

という判断があったんでしょうね。

対比で言うと、ビートルズだったら、「ぼく」でもありかな、という気がします。

ピジン日本語資料

衣畑智秀氏(京都大学大学院文学研究科・研究員)がご教示くださった、ピジン日本語の例を2つ掲示しておきます。ともに、外国人が使用するアリマス型ピジンに属します。

Japanpunch一つは、1866年(慶応2)5月発行 Japan Punch からの例で、"An incident at the French School"というタイトルが付いています。フランス人の教官と思われる人物が、

フタツ、フタツ、ヨッツ アリマス ワカリマス?
(2×2は4,分かりますか)

と聞くと、ちょんまげを結った日本人の生徒が

Nous ne wakarimasans pas

と答えています。これは、フランス語の中に日本語「分かりません」を混ぜ込んだピジンで、先生も生徒もともにピジンでやりとりしているところに滑稽味があります。ただし、生徒の答えの方は「(私は)分かりません」と言いたいのなら、文頭の代名詞は nous ではなく、je とあるべきでしょう。これも、作者はわざと誤らせたのでしょうか?

Marumaru__2 二つめは、1877年(明治10)9月22日付けの『団々珍聞(まるまるちんぶん)』で、私利私欲のために亡国的な貿易を続ける商人たちを批判するポンチ絵の中に、ピジンが書き込まれています。外国人商人が、

日本生糸茶みなみな為になる好物(よいもの)あります 目方ありませぬ 私の物皆々玩弄物(おもちや)目方重いあります 娘に遣るありましても 私ドロ沢山(たいさん)もつて帰ります 誠宜しい

と話している部分です。「たいさん」「~よろしい」等の横浜ピジンに特徴的な語彙が用いられています。

日本語の教室より(続)

2月24日に引用させていただいた、「た」さんのコメントに関連して、少し書いておきます。

一つの問題は

  • 日本語教育において、日本語の表現に現れる性差をどう教えるか

ということなのだろうと思います。初級の段階だと、「です・ます」体だけで性差があまり出ないので、さして問題はないのですが、中級に入ると、プライベートな対話が入ってくるし、終助詞も使うようになるので、いろいろ問題が起きてくると思います。代名詞の問題ももちろんあって、男性の場合は、「ぼく・おれ」問題が発生することになりますが(この記事参照)。

困るのは、

  • メディアに現れる表現と、現実の対話の間に、大きな乖離がある

ことです。即ち、「今日は雨だわ」「あら、すてきな指輪ね」それに「これ、いただいてもいいかしら」といった女性特有表現は、日常的にテレビやら読み物やらに現れているわけですが、現実にこういった話し方をする人は、少数派になりつつあるのですね。不正確な直感ですが、東京方言圏でも、40代と30代の間あたりに、大きな溝がありそうです。年配の人でも、いつも使うわけでなく、また人によってよく使う人、使わない人、さまざまです。

ですから、若い学生が「このティッシュ、使ってもいいかしら」というと、大変滑稽に聞こえる。ところが、受容のための知識としては、まだまだ必要だと思います。つまり「ダブル・スタンダード」状態になっているのです。

ソウルの大学で現役で日本語を教えていらっしゃる、40代の女性に聞いた話では、教材を作るときに「今日は雨だわ」的な表現を入れるか入れないかで、同僚の30代の教師ともめたそうです。その40代の先生は、「絶対入れるべき」と主張されたのですが、30代の教師に「『だわ』はやめてよ~」と強く抵抗されたのだとか。

性差を示す表現以外にも、場に合わせて適切なスタイルを使い分けるというのは、かなり微妙な感覚が必要で、教科書的に整理するというのは素人考えでは極めて難しいことに思われます。一昨年、ゼミ旅行に行ったとき、女子学生同士で雑談している中で、中国から来た留学生が

「さあ皆さん、お茶の時間にしましょう!」

と言ったら、そこにいた日本人学生たち全員が笑ってしまったそうです。この留学生は日本語が大変上手だし、この表現自体、文法的・意味的にパーフェクトなのですが、会話の雰囲気の中では、すごく浮いて聞こえてしまうのですね。関西方言コミュニティーであったというせいもあるのでしょうが。

もちろん、上の表現でも、それにふさわしい場が与えられれば不自然でなくなるでしょう。会話場面のカジュアルさ、フォーマルさをどのように見積もるか、またそのカジュアルな度合いによって、どのようなスタイルを使うか、ノン・ネイティブに教えるのはすごく難しい気がします。あるいは「どのスタイル」という風に分類すること自体が可能なのかどうか、私にはよく分かりません。

というわけで、結局、「た」さんのご質問には、まともに答えられないわけです。ごめんなさい。日本語教師の方、いっぱい悩んでね。

なお、「た」さんが指摘している「『役割語』の意図的な『習得』または『利用』」の問題については、後日書きます。

日本語の教室より

2月20日の記事に、「た」さんがコメントを付けてくださいました。大変興味深い問題で、実は同じようなご質問を、何人もの日本語教育に携わる方々からいただいています。私の考え(というほどまとまっていませんが)は後日改めてお示しすることとして、まず「た」さんのコメントをここに再掲いたします。皆さんも考えてみてくださいね。

 メールにて失礼致します。いつも広いジャンルに渡る話題を興味深く拝読させていただいております。私は現在中国人に日本語を教える者ですが、昨日、私には『難しい質問』を受けました。是非先生にご相談したく、メールさせていただきました。
 受けた質問は、日本語会話のテキストにあった下記の例文に関するものです。
  ◇女A「このティッシュいただいてもいいかしら」
 質問者は大学2年生で、日常的な応対ならだいたいできるレベルです。まず、「~かしら」のニュアンスについて聞いてきました。私が大ざっぱに「女の人が、考えながら話している様子。ちょっと上品な感じ」などということを答えると、彼女が「では、私もこれからはそのように言うべきですね?」と言ったのです。私が「う~ん、普通の人はあまり言わないかなあ」などと言うと、彼女は「私も女です。上品な話し方をしたいです≪熱いまなざし≫」と言いました。
 私の答え方が中途半端であったことは否めないと思います。終助詞に関しては、非常に質問が多いので、私自身がもう少し的確な回答ができるようにしなければならないと思います。しかし、その問題とは別で、これは<役割語>の問題でもあると思います。私はそういう方向からの説明もしたかったのですが、理解が不十分なので、生半可なことは言えませんでした。
 先生は、ご本の冒頭に外国人の役割語に対する理解の問題を挙げられています。私はご本を拝読した時から、外国人・日本人を問わず、役割語の「理解」に加え、『意図的な』「習得」または「利用」に関して、興味を持っていました。
 彼女にどう答えてあげたらいいか、また、今後こういう問題を広くどのように考えたらいいか、教えていただけませんでしょうか。
(長くなり、大変失礼致しました。)

サロン・ド・K

先日、「サロン・ド・K」というサークルに招かれて、「言語のステレオタイプ:役割語研究の展開」という講演をしてきました。平日の夕刻、梅田の真ん真ん中にある小ホールに集まった皆さんとともに和気藹々と楽しくお話を進めることができました。この雰囲気は、主催者のK先生のご人徳による部分がすこぶる大きいのであろうと感じました。『懐徳堂記念会 記念会だより』No. 73にK先生がサロンのことについて書いていらっしゃいますので引用します。

 私はS41年に大阪大学医学部を卒業し、その後は大阪府職員として臨床医→研究者→教師と変貌し、最後は短大部の運営責任者として勤めてきた。このうち、一番長く楽しかったのは研究者時代であったが、その最中にふと研究室と家の往復しかしない自分に気が付き、社会的な視野狭窄に陥る不安を覚えた。そこでワイフと1984年1月に始めたのが“サロン・ド・K”と称する種々の分野の専門家の話を仲間とともに聞く会である。“知るは喜び”を主たるコンセプトとし、ここでの“知”や“学”は直接仕事に役立つ訳ではないが、視野を広め人生を豊かにすると考えている。メンバーは種々の職業の約60人(例会参加者は平均30人)例会は10回/年、友人達の賛同・協力のおかげで現在22年間続いている。テーマは何でも良く、“南極越冬体験”や“オペラ”などの文化・芸術から“TVの構造”や“遺伝子組み換え”などの科学まで広範囲に及ぶ。

このすばらしい知的なサロンが末永く続いていくよう心よりお祈り致します。

チャイナ少女

cha-wonray東映アニメーション制作「金色のガッシュベル」に出てくる、リィエンというチャイナ少女が、〈アルヨことば〉を話しているらしいことを発見。原作はまだ調べてません。一応、心覚えのために。詳しい情報お持ちの方、教えてください。(画像は http://www.toei-anim.co.jp/tv/GB/ から借用しました)

ストックキャラクター

Wikipediaで、おもしろい項目を発見しました。ここです。「ストックキャラクター」って概念、始めて知りました。おもしろいですね。

カートゥーンの音楽

細馬宏通さんの日記(20060104)に、カートゥーンの音楽の機能についての分析がありました。役割語の類推で「役割音楽」という概念をたてていらっしゃるのがおもしろかったです。勉強になりました。

清原2

ここで、清原の一人称が勝手に「わし」にされる話を書きましたが、最近彼が出ているパチスロのCM(Fields 「俺の空」)では、

「ワイの空」

になってましたね。

ピジン日本語

お正月に酒も飲まずに書いていた論文が一応脱稿。「はじめに」と「まとめ」だけアップしておきます。

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役割語としてのピジン日本語の歴史素描

金水 敏

1 はじめに
 主にポピュラーカルチャー作品の中で中国人を表現する際に、「わたし、知ってるあるよ」「早く食べるよろし」等の、独特な話し方がよく用いられる。これは現実の描写ではなく、一種の役割語 (金水2003:第6 章) であり、現在の日本でこのような話し方をする中国人はまず存在しない。本稿は、このような話し方をピジン日本語の一種と位置づけ、役割語としてのピジン日本語の歴史的な背景を探ることを目的とする。問題となるのは次の諸点である。

1. この種のピジン日本語は、どこでどのように生じたか。

2. 発生後、どのような場所で、いつまで使用されたか。

3. ピジン日本語の中に、変異や変化は見られるか。

4. マスメディアにどのようにピジン日本語が取り上げられ、どのように現在まで生き残ったか。またその歴史的・社会的な背景はどのようなものであるか。

 本稿の最も重要な目的は4 であるが、それを明らかにするためには、1~3 の使用実態の考察も欠かせない。ただし未だ資料が十分ではなく、完全な記述には遠いというのが実情である。本格的な考察は今後のこととして、本稿では、とりあえず素描を試みるものである。
 なお、本稿の執筆に当たっては、筆者もそのメンバーの一人である科学研究費「文献に現れた述語形式と国語史の不整合性について」(2003~2004 年度科学研究費補助金基盤研究(c) 研究成果報告書, 課題番号: 15520290, 研究代表者: 蜂矢真郷) の研究、とりわけ岡島昭浩氏の資料収集 (岡島2005) に多くを負っている。また、前田均氏、屋名池誠氏にも重要なご教示を賜ったことを記しておく。

(中略)

9 まとめ
 19 世紀後半、横浜開港場を中心に、日本人、西洋人、華僑たちの相互のコミュニケーションのために、日本語ベースのピジンが生まれた。横浜ダイアレクト、Yokohamaese 、横浜ことばなどと呼ばれる言語である。またExercises in the Yokohama Dialect の中でNankinized-Nippon と呼ばれるピジン日本語も同じ頃生じたようで、こちらは専ら中国人系話者と日本人との会話に用いられたようである。前者はアリマス型、後者はアル型で、起源的にはいとこ同士のような関係にあると言える。
 明治10 年代くらいまでは、横浜ダイアレクトに似たアリマス型のピジン日本語が創作的作品に多く用いられており、その話者は西洋人、中国人ともに見られた。明治20 年代以降、外国人(中国人を含む)のステレオタイプ的な表現として、アリマス型のピジン日本語が引き続き用いられていったが、昭和10 年代に入ると、日本人入植地における現地人とのコミュニケーションを反映し、アル型ピジン日本語が創作的作品にしばしば登場するようになる。
 現在の多くのポピュラーカルチャー作品に見られるアル型ピジン日本語は、この昭和10 年代以降に現れた状況を受け継ぐものであろう。また現在、西洋語なまりの日本語を表現する際、「ソレ、チガイマース、ワタクシ、ソンナコト、イッテマセーン」のように必ず丁寧体になる点は、アリマス型ピジン日本語の特徴を一部受け継いでいるのかもしれない。
なお、終戦後、アジアの政治的・社会的状況が一変したにもかかわらず、この種のピジンが作品に残り続ける点には、金水(2003) に示した〈老人語〉〈女性語〉の歴史と同様に、役割語の独立性・永続性がはっきりと現れていると言えるだろう。

備忘のために

くうざんさんの「博士語」のご報告がありましたので、記録しておきます。『恐怖の存在』自体は未見。

チュラロンコーン大学

DSC02666 DSC02692 DSC02686 2005年12月21日から25日までタイ・バンコクに行っていました。チュラロンコーン大学文学部でのシンポジウムに出席するのが目的です。シンポジウムのプログラムをアップしておきます。

国際シンポジウム「アジアの表象/日本の表象」
日時:2005年12月22日
会場:チュラロンコーン大学文学部
主催:大阪大学大学院文学研究科
共催:チュラロンコーン大学文学部
プログラム:
講演「明治時代における恋愛観」佐伯純子(同志社大学)
研究発表「大江健三郎の作品における女性像---「奇妙な仕事」から「同時代ゲーム」」ドゥアンテム・クリサダーターノン(チュラロンコーン大学)
[コメンテーター:平松秀樹(大阪外国語大学)、荘中孝之(京都外国語大学)]
講演「役割語研究の動向」金水 敏(大阪大学)
[コメンテーター:岡崎友子(大阪大学)、松丸真大(大阪大学)]
研究発表「日本文学における「タイ」」ナムティップ・メータセート(チュラロンコーン大学)
[コメンテーター:佐伯純子]
研究発表「近松門左衛門の処罰物における親子関係についての考察」ヌッチャナン・ジャンジュナーマート(チュラロンコーン大学)
研究発表「「声の文学」としての語り物」
  「近世から近代における浄瑠璃」細田明宏(別府大学)
  「近代における浪花節」真鍋昌賢(大阪大学)
[コメンテーター:海野圭介]

学術活動のあいまには、おいしい(辛い!)タイ料理をふんだんにいただき、ワット・ポーで涅槃仏を拝観し、タイ古式マッサージを満喫し、美しいショーも拝見しました。タイの12月は、ほどよい気温で風も通り、大変過ごしやすい季節です。クリサダーターノンさんを初め、タイの皆様には大変お世話になりました。

キャラ語

伊藤剛 (2005)『テヅカイズデッド』NTT出版(ISBN4757141297)では、「キャラクター」と「キャラ」という概念が使い分けられています。

 あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に簡単な線描を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方、「キャラクター」とは、

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表現として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義できる。(97頁)

私の「役割語」は、何らかの形で言語の実態から出発しているのが普通であり、すなわちそれ故に何らかの歴史性・社会性を背負っています。例えば〈大阪弁・関西弁〉の話し手は、江戸時代の、「江戸の上方人」から受け継いだ現実主義者、拝金主義者の性格をあらかじめ与えられている、というように。

しかし最近のマンガやアニメのキャラの中には、〈大阪弁・関西弁〉を使用しているにもかかわらず、そういった歴史性、社会性を一切持たないかのように見えるものがあるようです。それは、単にキャラの持ちうる取り替え可能な属性の一つとして、〈大阪弁・関西弁〉が与えられているだけなのかもしれません。

「ぼく」から「おれ」へ

布施英利『マンガを解剖する』ちくま新書(2004.11, ISBN4-480-06206-8)から、気になった部分を引用しておきます。

 そもそも、はじめに「子供の世界」などという絶対的なものがあって、それを描くのではない。子供だって「創られた」世界に染まるのだ。ぼくの息子が、四歳のとき、自分のことを「オレ」と言うようになった。我が家では「ぼく」と言うように躾けていたのだが、家庭の教育に対する反抗か、親への挑戦か。だが、そもそも、どうして「オレ」などというボキャブラリーを覚えたのか。誰か友だちで、自分のことをオレという子供がいて、その影響なのか。

 息子に問いただすと、ひとこと「ジャイアン!」という。どうやら『ドラえもん』のジャイアンに憧れて、その真似をしているらしい。息子はまだ文字が読めない年齢だからマンガではなくアニメのほうの『ドラえもん』の影響だ。ジャイアンという理想のモデルがあって、それに近づこうとする。このモデルを作ったのは、子供ではなく、マンガ家、つまり大人である。(160頁)

拙著第四章3「ペルソナ(仮面)としての役割語」(127頁)に関わる内容であると思います。この例以外にも、幼児から少年に成長する過程で「ぼく」から「おれ」に一人称を切り替える話は時々耳にします。私はずっと「ぼく」のままでしたが。

流行歌「ぼく」「おれ」リスト

日本の流行歌で、「ぼく」または「おれ」(と「おいら」)を含むものの曲名リストです。「bokuore.xls」をダウンロード

清原

唐沢俊一『ダメな人のための名言集』(幻冬舎文庫、2005/8/5、幻冬舎)に、次のような項目がありました。

新聞に載るオレのコメントな、一人称が『オレ』って言うてんのに、なんで『ワシ』になってんねん。          清原和博

唐沢氏は次のようにコメントしている。「それは“ワシ”と言わない清原は、たとえホンモノの清原であっても、全国のファンが望む清原ではないからである。ジャイアント馬場は“アポー”などと言わなかったし、具志堅は“ちょっちゅね”などと言わないが、あくまで全国のファンは、そういうキャラクターとして彼らを認識している」(185頁)

この本は、「名言」の出典をかなり細かく記載しているのですが、この項目にはそれがありません。インタビューか何かで聞き覚えていたせりふを唐沢氏が再構成したものかもしれませんね。

ところでこの本の別の項目には、

私たちは、大学で高い学問をしてゆけるだけの頭があるかどうかを試すため問題を出すのであって、低能児のテストをやるのではない。  小西甚一『古文研究法』前書き

というのもあって(89頁)、同業者として興味を引かれました。『古文研究法』には、「(日本語は日本人である限り)だいたいは理解できる。ばかでない限りは」という文章もあるそうです。

こういう高飛車な感じ、少なくとも表向きは、今の大学にはすっかりなくなってしまいました。

わしは役割語を研究しておるのじゃ

金水 敏 2005 3 15 「わしは役割語を研究しておるのじゃ」『文藝春秋』(第83巻第4号、特別版、3月臨時増刊号 118-119頁 文藝春秋)より再録です。
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 次のセリフを話している人は、いったいどんな人物であろうか。

「わしは、心からあんたが好(す)きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間(せけん)からみれば、ほんの小さな平凡(へいぼん)なひとりにすぎんのだからなあ!」

 この本を読んだことのある人にはピンとくるところがあるだろうが、そうでなくても、何となく「年寄り」というイメージはつかめるだろう。男性か女性かといえば、間違いなく男性だと考えることと思う。「正解」は、「ガンダルフ」という魔法使いで、白く長い髭を生やした老人の男性である。映画「ロード・オブ・ザ・リング」にも出ていた、あのガンダルフである。このセリフの典拠はトールキン作・瀬田貞二訳『ホビットの冒険・下』で、「ロード……」はその続編『指輪物語』を映画化したものである。

 ガンダルフを知っている人は、このセリフの話し方が「ぴったりだ」と思うだろうし、知らない人でも、白髪・白髭の魔法使いと言われれば、「なるほど」と思うだろう。なぜなのだろうか。その手がかりは、このセリフの言葉遣いの中にあることは間違いない。例えば、「わし」「あんた」という代名詞。「好きだ」ではなく「好きじゃ」といい、また「ひとりにすぎない」ではなく「ひとりにすぎん」という、語法。こういったところに、老人の男性を彷彿させる特徴が現れている。

 このように、特定の人物像と密接に結びついた言葉遣いのことを、私は「役割語」と呼んでいる(『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店、二〇〇三)。とくに、このガンダルフのようなしゃべり方を私は〈老人語〉と規定しているが、役割語は〈老人語〉だけでなく、〈お嬢様語〉〈社長・部長語〉〈サムライ語〉〈少年語〉等、いくらでもある。例えば「あら、よろしくってよ、先にお召し上がり遊ばせ…」などというセリフを聞けば、たちまちきどった上流階級の婦人を思い浮かべることであろう。

 役割語は、社会心理学で「ステレオタイプ」と呼ばれる、思いこみ・紋切り型知識の一種である。ステレオタイプの一部は幼少期の環境の中で植え付けられると言われるが、役割語も人々が幼少期に出会う、絵本、漫画、アニメ、映画、読み物等のポピュラーカルチャー作品を介して受け継がれ、広まっていく。つまりまさしく、『ホビットの冒険』や「ロード・オブ・ザ・リング」が〈老人語〉を媒介していくのである。

 役割語の中には、現実に人々が話している言葉遣いに近いものもあるが、現実から遠いものも多い。例えば先の〈老人語〉のように話す老人は、(西日本の方言話者を除いて)現実にはほとんど存在しない。

 現実とはほど遠い場合でも、作者にとっては便利なので、ついつい役割語に頼ってしまう。そんな小説家の悩みを、清水義範は『日本語必勝講座』(講談社、二〇〇〇)の中でこう吐露している。

現実には、会社で上司が部下に仕事を頼む時に、「今日中にやっといてくれたまえ」とは言っていない。調べてみればすぐわかる。「それ、今日中にね」だったりする。「今日中にやってくれるかな」だったりもする。時には「今日中にやってちょうだいね」だったりすることさえある。しかし小説の中の上司の台紙(せりふ)としては、現実の会話をそのままテープ起こししたような、「やってちょうだいね」とは書けないのだ。(中略)小説の中の会話は、小説用に再構成された虚構のことばである。私などは、なるべくそういう型としてのことばではなく、リアルなことばを書きたいと思っているのだが、それでも完全にそう書けるわけではない。(清水義範『日本語必笑講座』より)

 ことは創作の場面だけではない、報道記者でさえもがそうなのだ。例えば沢木耕太郎はエッセイ「奇妙なワシ」(『バーボン・ストリート』新潮社、一九八四)の中で、特定のスポーツ選手の談話記事に「わし」という一人称代名詞を使わせる虚構について指摘している。つまり、スポーツ記者は、記事の不正確さを糊塗(こと)したり、不充分さを補ったりするために、「わし」をスポーツ選手に使わせ、「らしさ」を演出しているのである。

彼ら(ボクシング・チャンピオンの輪島と横綱の輪島。引用者注)にワシと言わせれば、いかにも横綱らしく、いかにも根性のチャンピオンらしく聞こえる。しかし、その「らしさ」はあくまでも偽物(にせもの)にすぎなかった。(沢木耕太郎「奇妙なワシ」より)

 私の現在の考えでは、役割語はあらゆる言語に存在するが、日本語は私の知っている言語の中でも、比較的役割語が現れやすい言語であるらしいことが分かってきた。言語の仕組みの中で、話し手のカテゴリーを示しやすい道具がふんだんにそろっているのである。その最たるものが、「わし」「おれ」「ぼく」「わたし」のような代名詞、そして「行くよ・行くぞ・行くぜ・行くわ」のような文末の形式である。例えば英語を例にとると、一人称の代名詞は〃I〃一語だけだし、文末にはほとんど何も付けることができない。別の方法で話し手の属性が匂わせられることもあるのだが、日本語ほどあからさまなマークはあまりない。

 今私は、さまざまな役割語のヴァリエーションやその起源、外国語との比較、またマンガの絵柄と役割語との関係などに興味を持って調べている。例えば、流行歌で「ぼく」が使われるか「おれ」が使われるかという違いが、歌の内容・世界と密接に関連していることも分かってきた。今後はそんな成果を『役割語辞典』『役割語練習帳』などのような形で公表していきたいと思っている。あ、『声に出して読みたい役割語』なんてのも、いいかもしれませんね。どうぞ、お楽しみにお待ち下さい。

日本語教育能力検定試験

DSC02630 先月、10月16日に実施された「平成17年度日本語教育能力検定試験」(財団法人 日本国際教育支援協会)の問題に、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』が使用されました。

光栄なことですが、設問に若干疑問があります。問い2では、どうも「超うざい。」というのは役割語ではないと解釈させたいようなのですが、私から見ればこれも立派な役割語です。ひょっとしたら、「超うざい、」は現実に存在するから役割語ではないと、設問者は考えていらっしゃるのかもしれません。

私は本にも書いているように、現実に似ているかどうかではなく、データを現実の発話として見るか、心理的・社会的な知識として見るかという、ものの見方として「役割語」を定義しているのですけどねえ。

オープニング

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最初の方の記事は、SKinsui's blogから再録しました。

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