« 備忘のために | トップページ | 清原2 »

2006年7月22日 (土)

ピジン日本語

お正月に酒も飲まずに書いていた論文が一応脱稿。「はじめに」と「まとめ」だけアップしておきます。

=====

役割語としてのピジン日本語の歴史素描

金水 敏

1 はじめに
 主にポピュラーカルチャー作品の中で中国人を表現する際に、「わたし、知ってるあるよ」「早く食べるよろし」等の、独特な話し方がよく用いられる。これは現実の描写ではなく、一種の役割語 (金水2003:第6 章) であり、現在の日本でこのような話し方をする中国人はまず存在しない。本稿は、このような話し方をピジン日本語の一種と位置づけ、役割語としてのピジン日本語の歴史的な背景を探ることを目的とする。問題となるのは次の諸点である。

1. この種のピジン日本語は、どこでどのように生じたか。

2. 発生後、どのような場所で、いつまで使用されたか。

3. ピジン日本語の中に、変異や変化は見られるか。

4. マスメディアにどのようにピジン日本語が取り上げられ、どのように現在まで生き残ったか。またその歴史的・社会的な背景はどのようなものであるか。

 本稿の最も重要な目的は4 であるが、それを明らかにするためには、1~3 の使用実態の考察も欠かせない。ただし未だ資料が十分ではなく、完全な記述には遠いというのが実情である。本格的な考察は今後のこととして、本稿では、とりあえず素描を試みるものである。
 なお、本稿の執筆に当たっては、筆者もそのメンバーの一人である科学研究費「文献に現れた述語形式と国語史の不整合性について」(2003~2004 年度科学研究費補助金基盤研究(c) 研究成果報告書, 課題番号: 15520290, 研究代表者: 蜂矢真郷) の研究、とりわけ岡島昭浩氏の資料収集 (岡島2005) に多くを負っている。また、前田均氏、屋名池誠氏にも重要なご教示を賜ったことを記しておく。

(中略)

9 まとめ
 19 世紀後半、横浜開港場を中心に、日本人、西洋人、華僑たちの相互のコミュニケーションのために、日本語ベースのピジンが生まれた。横浜ダイアレクト、Yokohamaese 、横浜ことばなどと呼ばれる言語である。またExercises in the Yokohama Dialect の中でNankinized-Nippon と呼ばれるピジン日本語も同じ頃生じたようで、こちらは専ら中国人系話者と日本人との会話に用いられたようである。前者はアリマス型、後者はアル型で、起源的にはいとこ同士のような関係にあると言える。
 明治10 年代くらいまでは、横浜ダイアレクトに似たアリマス型のピジン日本語が創作的作品に多く用いられており、その話者は西洋人、中国人ともに見られた。明治20 年代以降、外国人(中国人を含む)のステレオタイプ的な表現として、アリマス型のピジン日本語が引き続き用いられていったが、昭和10 年代に入ると、日本人入植地における現地人とのコミュニケーションを反映し、アル型ピジン日本語が創作的作品にしばしば登場するようになる。
 現在の多くのポピュラーカルチャー作品に見られるアル型ピジン日本語は、この昭和10 年代以降に現れた状況を受け継ぐものであろう。また現在、西洋語なまりの日本語を表現する際、「ソレ、チガイマース、ワタクシ、ソンナコト、イッテマセーン」のように必ず丁寧体になる点は、アリマス型ピジン日本語の特徴を一部受け継いでいるのかもしれない。
なお、終戦後、アジアの政治的・社会的状況が一変したにもかかわらず、この種のピジンが作品に残り続ける点には、金水(2003) に示した〈老人語〉〈女性語〉の歴史と同様に、役割語の独立性・永続性がはっきりと現れていると言えるだろう。

« 備忘のために | トップページ | 清原2 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ピジン日本語:

« 備忘のために | トップページ | 清原2 »

最近のトラックバック

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28