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2006年8月14日 (月)

『誤訳の事情』より(4)

同じく、下記の本からの抜き書きです。

直井明 (2003) 『海外ミステリ 誤訳の事情』原書房, ISBN:4-562036-65-6

 自分で小説を書くのだったら、主人公が自分を「おれ」と言うか「私」「あたい」と言うか、その人物の生い立ちや環境によって自然に選んで使い分けるだろうが、翻訳小説の場合は、その人物の性格や生活背景を見きわめて、翻訳者が決めねばならない。手許にある本の会話から拾い出してみると、サム・スペードは「おれ」、ルー・アーチャーは「わたし」、ニール・ケアリーは「ぼく」となっていて、どれも順当な選択だ。サム・スペードが「ぼく」という場面は想像しにくいし、ケアリーが「おれ」と言うと彼の人柄も作品の雰囲気も変わってきそうだ。フィリップ・マーロウは、訳者によって、「私」「僕」「ぼく」「おれ」、ディヴ・ロビショーは「ぼく」と「わたし」に分かれている。
 向井敏氏は著書『探偵日和』の“「おれ」か「私」か”と題する章で、田中小実昌氏と清水俊二氏がそれぞれ訳したチャンドラーの『高い窓』の文体を比較し、田中訳ではマーロウに「おれ」と言わせたので「威勢のよすぎるマーロウ」になっていると指摘する。清水訳では「私」だ。向井氏の引用例のなかから両者の違いが最も明確な箇所を孫引きさせていただこう。訪ねてきた男がマーロウを見て言う。Aが田中訳、Bが清水訳である。

 A 「すこし失望したな。きたない爪をした、ゴリラみたいな男だとおもったのに――」
 B 「少々あてがはずれたよ。もっと指の爪がよごれた男だろうと思っていた」

 マーロウがその訪問者を観察する。

  A “椅子の背によりかかって、退屈した貴族みたいに笑いやがった”
  B “退屈をもてあましている貴族のような微笑をうかべて、椅子の背にもたれた”

 これだけの比較でも、二人の訳者の持つマーロウ像の違いが歴然としている。向井氏によると、訪問者の“ゴリラみたいな男」というマーロウ批評は原作にないとのことで、明らかに田中訳は暴走している。原文にない言葉を自分の判断で入れてしまうのでは、翻訳ではなく、まるで自分で小説を書いているようなものだ。また、「おれ」という主語から出た流れとして、訪問者の笑いも“笑いやがった”と訳されていて、マーロウがやくざっぽく見えるが、この笑いは原文ではsmileとなっている由。smileは笑い声を伴った笑いではないし、歯をむき出しにしてにやりとする笑いでもないのだから、“笑いやがった”と訳したのでは、ほとんど誤訳に近いほど、語感が原文と離れてしまっている。(pp. 138-140)

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