« 2006年8月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年9月17日 (日)

私ということ

埼玉県の高校教員の、福田公明さんという方から、下記のような資料を送っていただきました。

埼玉県高等学校国語科教育研究会「音声言語指導事例集(第2集)」編集委員会 (編)(1999) 『高等学校国語科指導資料「音声言語指導事例集」第2集―言語の教育の場としての国語教室の活性化をめざして―』埼玉県高等学校国語科教育研究会.

福田さんの教案「22 私ということ 自分を何とよんでいますか」(pp. 276-277)には、一人称代名詞の反省を通じて、自己と社会とのつながりについて考察するきっかけを与えようという狙いがあるかと思います。次のような例が挙げられていました。

=========

【授業の展開】
1. 「みんなは、自分のことを何て言っていますか?」と生徒に問いかける。
 (身近なことから、言葉の問題を引きだし、問いかけたい。自分を何というかは、最も身近な問題である。身近な問題から言葉の本質に迫りたい。)

2. 次の文章を、生徒に示す。(模造紙に書いた文章を示す。)
[例1]
 先日、TV番組を見ていたら、吉田拓郎がこんなことを言っていた。

「新聞で(A)のことが出ているのを読むと、いつでも(B)はと書いてあるんだけど、(C)は自分のことを(D)と言ったことがないんだ。マスコミはそう思いこんでいるのかな?」

3. 「ABCDには、何が入りますか。どうして、そう考えましたか?」
 (TVでは、ACは僕、BDはおれと言っていた。)

[例2]
先日TV番組を見ていたら巨人の清原選手がこんなことを言っていた。

「(E)は自分のことを(F)とよんでいるのに、マスコミは(G)と書く。VTRで確認してもらえばわかる。どうして(H)はと書かれるのかな?」

4.  「EFGHには、何が入りますか。どうして、そう考えましたか?」
 (TVでは、EFは僕、GHはわしと言っていた。)

5. 生徒の意見を、黒板にまとめる。吉田拓郎と清原は、どんなイメージを持たれているのかを考える。言葉と人間のイメージが密接な関係にあることを理解させる。

==========

ここおよびここここをご参照下さい。

2006年9月 8日 (金)

老人語の例

こちらで紹介されていた、老人語の例です。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001084/card42294.html

中途半端な老人語です。

2006年9月 3日 (日)

賛美歌

前田均さんから、明治時代の「宣教師語」を示すような資料を教えていただきました。金田一春彦・安西愛子(編)(1982)『日本の唱歌(下) 学生歌・軍歌・宗教家篇』(講談社文庫、ISBN:4061313703)の342-343頁にある「主われを愛す」という賛美歌(聖歌)です。現行の歌詞は次のようなものです。(原文とメロディーはここを参照)

主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
わが主エス わが主エス
わが主エス われを愛す

解説部分を引用します。

 明治版では第四百十八番、現行の『賛美歌』では第四百六十一番にあがっている。『聖歌』では第六百五十五番。この歌はもと、明治七年アメリカ人のクロスビー女史が日本語の歌詞をつけたものがあって、日本人が最初に歌った賛美歌であるという。ここに掲げたのは今歌われる歌詞である。
 クロスビー女史が付けた歌詞は

  エス、ワレヲ愛シマス サウ聖書申シマス
  彼レニ子供中 信ズレバ属ス
  ハイ、エス愛ス  ハイ、エス愛ス
  ハイ、エス愛ス  サウ聖書申ス

 といったものだったという。「子供中」とはわからない言葉であるがこう書いてある。

この、クロスビー女史の歌詞は、アリマス系のピジン日本語に類するものであることがわかります。

« 2006年8月 | トップページ | 2006年11月 »

最近のトラックバック

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28