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2007年5月21日 (月)

科研費

下記の要領で、科学研究費補助金をいただきます。

研究代表者:金水 敏(大阪大学)

研究課題名:役割語の理論的基盤に関する総合的研究
                  (公式ホームページはこちら)

期間:平成19年度~平成22年度

研究分担者:
山口治彦(神戸市外国語大学)・定延利之(神戸大学)・鄭 惠先(長崎外国語大学)・勅使河原三保子(徳島大学)・渋谷勝己(大阪大学)・松井智子(京都大学)・吉村和真(京都精華大学)・岡崎友子(就実大学)

研究の目的:
「役割語」とは、ステレオタイプ的な人物像と、心理的連合によって結びつけられたスピーチスタイルのヴァリエーションのことを指す。本研究では、(1)「役割語の認知とその発達」(2)「役割語の対照言語学的研究」(3)「役割語を巡る作品と享受者のインタラクション」(4)「日常談話における役割語の運用」の諸点を明らかにするために、(a)「幼児・児童の役割語的知識に関する真理実験と、それに基づく役割語習得メカニズムの理論化」(b)「対照研究の理論的基盤の整備」(c)「ポピュラーカルチャー作品における役割語表現の機能に関する基礎研究」(d)「日常談話におけるキャラ語尾と発話キャラクターの関連に関する研究」(e)「国際的研究ネットワークの構築」の5つの課題を進めていく。併せて、本研究の遂行を通して、日本語教育を初めとする言語教育、国語教育、翻訳論、文学研究等の隣接領域へも応用的貢献への方策も探求していく。

2007年5月16日 (水)

ゲームの獣系キャラ

「ネ言」さまが、ゲームキャラのセリフについてご紹介下さいました。

こちらをご覧下さい。

2007年5月13日 (日)

共在性から見た「です・ます」の諸機能

宮地朝子・北村雅則・加藤淳・石川美紀子・加藤良徳・東弘子 (2007) 「共在性から見た「です・ます」の諸機能」『自然言語処理』14-3, 17-38, 言語処理学会.

要旨
「です・ます」は、丁寧語としての用法のみならず場面に応じてさまざまな感情・態度や役割の演出などの表示となる。これは「です・ます」が持つ「話手と聞手の心的距離の表示」という本質と、伝達場面における話手/聞手のあり方とその関係の変化によって生じるものと考えられる。本稿では「です・ます」をはじめ聞手を必須とする言語形式を、コンテクストとは独立して話手/聞手の〈共在〉の場を作り出す「共在マーカー」と位置づけ、コンテクストにおける聞手の条件による「共在性」と組み合わせることで伝達場面の構造をモデル化した。コミュニケーションのプロトタイプとしての〈共在〉の場では、「です・ます」の本質的な機能が働き心的距離「遠」の表示となる。これに対して〈非共在〉の場では、典型的には「です・ます」は出現しない。しかし、〈非共在〉の場合でも共在マーカーが使用されると話手のストラテジーとして擬似的な〈共在〉の場が作り出される。この場合、共在マーカーとしての役割が前面に出ることによって聞手が顕在化し、話手/聞手の関係が生じて「親・近」のニュアンスが生まれる。「です・ます」が表す「やさしい」「わかりやすい」「仲間意識」などの「親・近」の感情・態度は〈非共在〉を〈共在〉にする共在マーカーの役割によって、「卑下」「皮肉」といった「疎・遠」の感情・態度は〈共在〉での心的距離の操作による話手/聞手の関係変化によって説明できる。
キーワード:です・ます、共在性、共在マーカー、感情の表示

役割語との関係について触れられた箇所を抜き書きします。

 また、「です・ます」が、特定のキャラクターと結びついた「役割語」として使われる場合も、話手と聞手の関係変化によると考えられる。「です・ます」を使うことで、普段の話手と聞手の関係とは異なる「遠」の関係の表示となり、話手は、自分とは違うキャラクターに変身する。
 (25) (のび太が思わぬ品物を手に入れて悦に入る場面)
    のび太:「これはたいへんなものですよ。」
         (ドラえもん、7巻、小学館、(定延 2005d:128)
 ある種の役割やキャラクターを表す場合、終助詞の類がその中心的な役割を果たす。役割やキャラクターを表しうる共在マーカーの使い分けが、話手の変身の演出、すなわち聞手との関係変化につながる。
 以上のような〈共在〉での心的距離の遠近の操作は、小説等のセリフで効果的に利用され表現効果を発揮する。(26)は、小説の中の嫁-舅の口喧嘩の中での舅のセリフである。
  (26)「……なんじゃい、二言めにはスジだの金だのといいくさって、ああ、どうせわしは得手勝手な爺いじゃ。親sないからこのかた遊びくらした道楽もんの、憎まれものの、邪魔っけな爺いじゃ。ようわかってるよそんなことは。お前はえらい、しっかり者です。立派な女子さんです。わしはバカじゃ。失言もし物忘れもする。この年だ。文句は年にいうてくれよ。……ふん、鬼みたいな顔で睨みくさって。わしは、お前みたいなこわい女とはよう暮らしません。この年になってピリピリチリチリ暮すなんて、わしはごめんじゃ。ああ、まっぴらです。わしを、Sへやってください」(山川方夫 1975, 海岸公園, 新潮文庫, p. 23)
 「わし」「~じゃ」といった老人の役割語とともに「です・ます」と「非です・ます」が混在して現れるセリフによって、「老人」が「感情むき出し」でいじけてみせていることが見事に表されている。(pp. 33-34)

感情・評価・態度

定延利之 (2007) 「話し手は言語で感情・評価・態度を表して目的を達するか?―日常の音声コミュニケーションから見えてくること―」『自然言語処理』14-3, 3-15, 言語処理学会

要旨
「話し手は、迅速で正確な情報伝達や、円滑な人間関係の構築といった目的を果たすために、言語を使って自分の感情・評価・態度を表す」という考えは、言語の研究においてしばしば自明視され、議論の前提とされる。本稿は、話し手の言語行動に関するこの一見常識的な考え(「表す」構図)が、日常の音声コミュニケーションににおける話し手の実態をうまくとらえられない場合があることを示し、それに代わる新しい構図(「する」構図)を提案するものである。
現代日本語の日常会話の音声記録と、現代日本語の母語話者の内観を用いた観察の結果、「表す」構図が以下3点の問題点をはらむことを明らかにする。:(i)目的論的性格を持ち、目的を伴わない発話を収容できない;(ii)外部からの観察に基づいており、当事者(話し手)の気持ちに肉薄し得ない;(iii)モノ的な言語観に立ち、言語を行動と見ることができない。
中心的に扱われるのは、あからさまに儀礼的なフィラー、つっかえ方、りきみである。「話し手は自分の気持ちに応じて、フィラー・つっかえ方・声質を使い分けている」という「表す」考えが一見正しく思えるが、実はどのような限界を持つのかを、実際のコミュニケーションから具体的に示す。
キーワード:日常会話、目的論、非流ちょう性、フィラー、つっかえ、声質、りきみ、発話キャラクタ

さらに、興味深く感じられた部分を抜き書きします。

 筆者の理解によれば、談話語用論は、個人の個別的行動こそ言語共同体における言語慣習(文法)の源だと考えている。数限りない個別の日常的談話の中で、繰り返し生じる単語列のパターンが、やがて文型になり、文法として立ち上がる(つまり「文法化」する)。個別的な談話で話し手が何事かを1回しゃべるたびに、発せられた五列が文法へと近づいていく、という形で、談話語用論は文法を談話からとらえ直そうとしている。「文法というものはない。あるのは文法化だけだ」というホッパーの発言は (Hopper 1987) 、このことをよく表している。
 但し、個々の談話から、どのように言語慣習が立ち上がるかについて、これまで提出されているアイディアは「頻度」1つしかない。つまり、個別的な談話において何度も繰り返し生じる言い方が共同体の言語慣習となり、あまり生じない言い方は言語慣習とならないという考えである。この考えは不自然なものではないと思うが、考えるべきことは頻度以外にもあるのではないか。
 たとえば、終助詞「わ」の女性専用の用法は、実際の会話ではほとんど観察されなくなってきている(尾崎 1999 を参照)。だが、女性専用の「わ」がドラマや映画、小説の言語に現れることは今でも珍しくない。女性専用の「わ」でかもしだされるキャラクタが(たとえば、あまりに女性らしさを強調しているなどの理由で)魅力あるものに映らなければ、「わ」に頻繁にさらされても使わないという女性話者の「選り好み」がここには見て取れる。個人の個別的行動と言語共同体レベルの言語慣習をつなぐには、出現頻度だけでなく、たとえば「かっこよく/強そうに/かわいく/セクシーに/知的に/まじめに ふるまいたい」、逆に「かっこわるく/弱々しく/醜く/野暮ったく/馬鹿者として/不誠実に ふるまいたくない」といった、日々のコミュニケーションを生きる個々人の欲(思い、思惑、打算など)と発話キャラクタ(定延 2006)に着目する必要があるのではないだろうか。(p. 13)

最後の問題提起はおもしろいのですが、しかし「~ふるまいたい/ふるまいたくない」という思い、思惑、打算に従って表現を選好するというのは、目的論的(「表す」構図)ではないのかどうか、筆者のお考えをさらに詳しく知りたいところです。

私の好む考え方では、定延氏が言う「欲」(思い、思惑、打算)は、言語の中核コミュニケーションの外側にある、メタ・コミュニケーション(フィクションにおける、「巨視的コミュニケーション」に該当する)ではないかと思います。そのように見ることが、定延氏のお考えの「表す」構図に含まれるのかどうか。ひょっとしたら、「表す」構図に含まれるのが中核コミュニケーションの部分だけであるとすると、私の考えと定延氏のお考えは、そう遠くないようにも思われます。

昔話の「じゃ」は方言?

朝日新聞2007年4月30日12頁(関西版)の「疑問解決モンジロー」という連載記事で、

昔話の「じゃ」は方言?

という見出しのもと、次のような質問が寄せられていました。

 昔話に登場するおじいさんは、よく「~じゃ」とか「~じゃのう」という話し方をしますが、なぜでしょうか? 私のまわりのお年寄りは東北弁ですし、そんな話し方をしません。どこの地方の方言で、何歳くらいの人が使っているのでしょうか。(岩手県紫波町 主婦 榎幹子さん 40歳)

これに対し、杉村孝夫氏(福岡教育大学・教授)、杉藤美代子氏(音声言語研究所・所長)、さねとうあきら氏(創作民話作家)らの談話をつなげる形で回答が作られています。

記事のまとめ的な位置に書かれている、「モンジローの感想」を引用します。

 「じゃ」「じゃのう」が「田舎」「おじいさん」を示す目印なのに対して、逆に方言を多用した物語では共通語がある種の役割を果たすみたい。木下順二作「夕鶴」では、主人公の「与ひょう」や他の登場人物は「おら」「~げな」などと話すのに対し、「つう」だけが共通語。「人間の姿をした鶴、という不思議さを出すためでは」と杉藤さん。ところで、モンジローの口癖の「ごザル」の効果は?

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