定延利之 (2007) 「話し手は言語で感情・評価・態度を表して目的を達するか?―日常の音声コミュニケーションから見えてくること―」『自然言語処理』14-3, 3-15, 言語処理学会
要旨
「話し手は、迅速で正確な情報伝達や、円滑な人間関係の構築といった目的を果たすために、言語を使って自分の感情・評価・態度を表す」という考えは、言語の研究においてしばしば自明視され、議論の前提とされる。本稿は、話し手の言語行動に関するこの一見常識的な考え(「表す」構図)が、日常の音声コミュニケーションににおける話し手の実態をうまくとらえられない場合があることを示し、それに代わる新しい構図(「する」構図)を提案するものである。
現代日本語の日常会話の音声記録と、現代日本語の母語話者の内観を用いた観察の結果、「表す」構図が以下3点の問題点をはらむことを明らかにする。:(i)目的論的性格を持ち、目的を伴わない発話を収容できない;(ii)外部からの観察に基づいており、当事者(話し手)の気持ちに肉薄し得ない;(iii)モノ的な言語観に立ち、言語を行動と見ることができない。
中心的に扱われるのは、あからさまに儀礼的なフィラー、つっかえ方、りきみである。「話し手は自分の気持ちに応じて、フィラー・つっかえ方・声質を使い分けている」という「表す」考えが一見正しく思えるが、実はどのような限界を持つのかを、実際のコミュニケーションから具体的に示す。
キーワード:日常会話、目的論、非流ちょう性、フィラー、つっかえ、声質、りきみ、発話キャラクタ
さらに、興味深く感じられた部分を抜き書きします。
筆者の理解によれば、談話語用論は、個人の個別的行動こそ言語共同体における言語慣習(文法)の源だと考えている。数限りない個別の日常的談話の中で、繰り返し生じる単語列のパターンが、やがて文型になり、文法として立ち上がる(つまり「文法化」する)。個別的な談話で話し手が何事かを1回しゃべるたびに、発せられた五列が文法へと近づいていく、という形で、談話語用論は文法を談話からとらえ直そうとしている。「文法というものはない。あるのは文法化だけだ」というホッパーの発言は (Hopper 1987) 、このことをよく表している。
但し、個々の談話から、どのように言語慣習が立ち上がるかについて、これまで提出されているアイディアは「頻度」1つしかない。つまり、個別的な談話において何度も繰り返し生じる言い方が共同体の言語慣習となり、あまり生じない言い方は言語慣習とならないという考えである。この考えは不自然なものではないと思うが、考えるべきことは頻度以外にもあるのではないか。
たとえば、終助詞「わ」の女性専用の用法は、実際の会話ではほとんど観察されなくなってきている(尾崎 1999 を参照)。だが、女性専用の「わ」がドラマや映画、小説の言語に現れることは今でも珍しくない。女性専用の「わ」でかもしだされるキャラクタが(たとえば、あまりに女性らしさを強調しているなどの理由で)魅力あるものに映らなければ、「わ」に頻繁にさらされても使わないという女性話者の「選り好み」がここには見て取れる。個人の個別的行動と言語共同体レベルの言語慣習をつなぐには、出現頻度だけでなく、たとえば「かっこよく/強そうに/かわいく/セクシーに/知的に/まじめに ふるまいたい」、逆に「かっこわるく/弱々しく/醜く/野暮ったく/馬鹿者として/不誠実に ふるまいたくない」といった、日々のコミュニケーションを生きる個々人の欲(思い、思惑、打算など)と発話キャラクタ(定延 2006)に着目する必要があるのではないだろうか。(p. 13)
最後の問題提起はおもしろいのですが、しかし「~ふるまいたい/ふるまいたくない」という思い、思惑、打算に従って表現を選好するというのは、目的論的(「表す」構図)ではないのかどうか、筆者のお考えをさらに詳しく知りたいところです。
私の好む考え方では、定延氏が言う「欲」(思い、思惑、打算)は、言語の中核コミュニケーションの外側にある、メタ・コミュニケーション(フィクションにおける、「巨視的コミュニケーション」に該当する)ではないかと思います。そのように見ることが、定延氏のお考えの「表す」構図に含まれるのかどうか。ひょっとしたら、「表す」構図に含まれるのが中核コミュニケーションの部分だけであるとすると、私の考えと定延氏のお考えは、そう遠くないようにも思われます。
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