同期の桜
高島俊男『お言葉ですが…8 同期の桜』(文春文庫、2007.6.10)を読んでいます。単行本『お言葉ですが…8 百年のことば』(文藝春秋社、2004.4.2)を改題して文庫に収録したものです。各記事の初出は、「お言葉ですが…」『週刊文春』2002年7月~翌年7月までの掲載分ですが、雑誌掲載後に単行本で書き足した部分があり、また文庫本あとがきが付いています。
この中に、文庫版のタイトルともなっている、「同期の桜」というエッセイがあり、ここでは「貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校の庭に咲く」という戦時歌謡が生まれた過程を探っています。
文庫版あとがきも含めて、変転の要点をまとめると、以下の通りです。
- 『少女倶楽部』昭和十三年二月号に西條八十の「二輪の桜―戦友の唄」という詩が掲載された。その歌詞は「君と僕とは二輪のさくら/積んだ土嚢の陰に咲く」で始まる。
- 昭和十四年、大村能章が曲をつけて、キングレコードから出た。歌手は樋口静雄。ただしもとの詩をだいぶ変えてある。
- 旧海軍兵学校71期生の帖佐裕という人が兵学校時代(昭和15年12月~昭和17年11月)、江田島のクラブでこのレコードを聴き、同期生の連帯を高める替え歌を作った。これが「貴様と俺とは……」の歌詞の始まり。
- 坂本圭太郎『物語・軍歌史』によれば、「この『二輪の桜』が『同期の桜』となって海軍部内でうたわれはじめたのは昭和19年の半である」とのこと。高橋氏は「察するに帖佐氏在学中は兵学校内部でうたわれていたのが、卒業後一年半たったころから、歌詞の「兵学校」のところを「航空隊」その他にかえて、海軍全体でひろくうたわれるようになったのであろう」(文庫版330頁)と書いている。
- 戦後は昭和34年頃から復活した。
高橋氏は、元祖「二輪の桜」と「同期の桜」の違いについて、次のような印象を述べています。
フシは、そっくりではあるが、「同期の桜」にくらべるとちょっとナヨナヨしている。よく言えば優美である。
歌詞も、よく似てはいるのだが、やや軟弱である。「同期の桜」が「貴様と俺とは同期の桜」とはじまるのに対して、こちらは「君と僕とは二輪の桜」とはじまる。軟弱でしょ?でもそのあとが「同じ部隊の枝に咲く」なのだから、軍人の歌であるには相違ない。(文庫版271~272頁)「君と僕」が「貴様と俺」になっただけでも、いかにも軍学校の生徒らしい力強い歌詞になっている。「ちらなきやならぬ」を「散るのは覚悟」にしたのもキッパリしている。ほんのちょっとのことで、凡作が秀作になるものである。(文庫版333頁)
また、「貴様と俺」が採用された背景について、高橋氏は次のような推測を述べています。
軍の学校にはいると地方での「僕」「君」は禁止で、同輩の間では必ず「俺」「貴様」と言わなければならなかったそうだ。兵学校で歌うためには、何はともあれ「君と僕とは」は「貴様と俺とは」に変えねばならなかった。(文庫版273頁)
なお、ここで言う「地方」は、「旧軍隊で、兵営外の『一般社会』をいうことば」(日本国語大辞典)です。
ただし、上の引用部分について、岩本初男さんという方から次のような投書があった旨記されています。
尚ほ、我々は臨時雇ひのニセ士官ですから、貴様、俺といふ言葉は殆んど使ひませんでした。小生は教官にさへ貴様と呼ばれた記憶はありません。(文庫版276頁)
岩本さんは長崎県佐世保出身、東北帝国大学経済学部卒、海軍予備学生、飛行科士官であった由。このことについて、高橋氏がこのように補足しています。
海軍士官でも大学出身の予備学生は必ずしも「貴様」「俺」と言わなかったらしい。「臨時雇ひのニセ士官」は兵学校出のいわゆるホンチャンでないことを言う。予備仕官のホンチャンに対する不信についてはこれまでにものべた。(文庫版277頁)
なお、私は子供のころ、「貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校(航空隊)の庭に咲く」という「同期の桜」をよく耳にしました。子供同士で歌っていてようにも思います。当然、昭和34年以後の復活期のことですが。当時、マンガやドラマで、日中戦争や太平洋戦争を題材にしたものが流行っていて、そういった時代相を反映してのことでしょう。
« 長崎純心大学日本語教育公開講座 | トップページ | 国語語彙史研究会(第87回) »
コメント