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2008年5月26日 (月)

ちばてつやあるよ

Photo_2 中野晴行編(2004)『マンガ家誕生。』ちくま文庫所収の、ちばてつや「屋根うらの絵本かき」(初出『別冊少年ジャンプ』1973年10月号)に<アルヨことば>の用例がありました。

【※以下はいずれも現地の中国人「徐集川(じょしゅうせん)」氏の台詞】

むこうへいっても 船にはのれないあるよ」(62頁)
「いやいやこまったときはおたがいさまね それよりデスヤちゃん いちばんおにいちゃんなんだから しっかりしなくちゃダメあるよ」(65頁)

 この短編は、幼少時代、旧満州に在留していたちば氏の「引き揚げ体験を描いた最初の作品」(あとがき278頁)で、中国人に命を救われた実体験が描かれています。素朴で優しい中国人のおじさんに対して、差別どころか感謝を込めて描かれていることが十分に感じられる作品なのですが、それでもやはり<アルヨことば>が用いられているところが興味深いです。この点は、同じく引き揚げ体験を持つ五味川純平の『人間の條件』(初出1956年三一書房)などとも共通しているように思われ、さらに類例を探していきたいところです。
 なお、ちば氏のほか、『フイチンさん』の上田トシコ氏、『天才バカボン』の赤塚不二夫氏などの作家が集まって「中国引き揚げ漫画の会」を結成しています。メンバーや略歴は舞鶴引き揚げ記念館(ギャラリー)で確認することができます。(IT)

明治大正見聞史あります

Photo  生方敏郎『明治大正見聞史』(大正15年、春秋社→昭和53年、中公文庫)の「憲法発布と日清戦争」の章に、当時の風潮についての記述と<アリマスことば>の用例がありました。差別意識がはっきりと観察できます。(IT)

 戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映して来た。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、
  討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、
  東洋平和の仇なるぞ、討ちて正しき国とせよ。
 というので、また、俗謡には滅茶メチャ節、「支那の李鴻章はよっぽどバカな奴ゥ」というのが大流行だった。同じ節で「日本の大鳥公使はよっぽど豪いもの」というのもあった。【略】
 また、俗謡に踊りの振まで付けて流行したのは、
  日清談判破壊せば、品川乗り出すあづま艦、つづいて八重山浪速(なにわ)かん、(中略)
  西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼奴がため、怨み重なるチャンチャン糞坊主
 というのだ。(39頁)

 俗謡では、さまざまに罵ったけれども、初めの中、内心では誰しも支那を恐れていたのだ。ところが皇軍の向かうところ敵なく、実に破竹の勢となったから、俗謡も絵も新聞雑誌も芝居も、支那人愚弄嘲笑の趣向で、人々を笑わせるものが多かった。(40頁)

 また戦時中、芝居小屋では戦争の際物を演じて客を呼んだ。【略】。筋も何もない物で、ただ大勢の支那兵と少数の日本兵との戦いで、必ず支那兵が負け、あやまったり泣いたり、
日本人たいへんたいへん強いあります
 というようなことを言って、終いは日本兵の註文に応じ様々の芸をしたり滑稽な唄を唄って、見物人を哄笑させる、それはそれは余裕綽々たる芝居であった。(41頁)

2008年5月25日 (日)

Wikipedia に立項

知らない間に、Wikipedia に「役割語」が立項されていました。

このサイトにリンクが張られています。

2008年5月24日 (土)

萩原朔太郎あるネ

 萩原朔太郎「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」に<アルヨことば>の用例が出てきました。

「やい。チャンチャン坊主奴(め)!」
 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂(かんぬき)に双手(もろて)をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉(とびら)は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間(すきま)から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法(めくらめっぽう)に振り廻した。そいつが支那人の身体(からだ)に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。
それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。
 と叫びながら、可憫(かわい)そうな支那兵が逃げ腰になったところで、味方の日本兵が洪水(こうずい)のように侵入して来た。
支那ペケ、それ、逃げろ、逃げろ、よろしい。
 こうして平壌は占領され、原田重吉は金鵄勲章(きんしくんしょう)をもらったのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1771.html

 以上は、青空文庫でご覧になれます。(IT)

2008年5月19日 (月)

桃屋アーカイブ

くうざんさんのサイトから。これからじっくり見てみます。

http://www.documentshowa.jp/

2008年5月15日 (木)

大菩薩峠アリマス

中里介山の長編「大菩薩峠」(1913~1941年連載)にアリマスことばの用例がありました。以下はその一部です。

マダム・シルク、ヨク似合ウコトアリマス
 大商人の隣席にいた赤髯(あかひげ)が、片言(かたこと)の日本語でほめました。
「有難うございます、手妻使いのようには見えませんか」
イヤ、ソウデナイデス、立派ナ西洋貴婦人アリマス
 こういう問答で、一座がにわかに春めいてきたが、主膳の苦々しさったらない。
 うんとお絹の横顔を睨(にら)みつけると、例の乳白色の少し萎(な)えてはいるが、魅力のある白い頬に、白粉をこってりとつけている。
マダム・シルク、アナタ日本ノ宝デアリマス、日本ノ富デアリマス
 赤髯が主膳の苦りきるのとは打って変って、お絹が現われてからにわかに陽気になりました。
 (新月の巻)

オ嬢サン、アナタ、モウ、ワタシノモノアリマス、逃ゲラレマセン
「ばかにおしでないよ、お前さんなんて、ウスノロのくせに」
アナタ、モウ、ワタシニ許シタデス、ワタシモウ、アナタ離サナイデス
「しつこい奴ね」
アナタ、ワタシノモノデス
「あ、畜生!」
 いかに争っても、これは問題にならない、というより、もう問題は過ぎているのです。娘は全くマドロスに抱きすくめられて、身動きすることもできない。そうすると、急に娘の言葉が甘ったるくなって、
「ねえ、マドロスさん」
「エ」
「そんなに苛(いじ)めなくてもいいことよ」
ワタシ、チットモ、アナタイジメルコトアリマセン、アナタ可愛クテタマラナイデス
「可愛がって頂戴。可愛がって下さるのはいいけれど、それほど可愛いものなら、わたしを大切にして頂戴、ね、ね」
大切ニシテ上ゲルデストモ、ワタシ、命ガケデアナタヲ可愛ガルヨロシイ
「では、わたしも、もう我儘(わがまま)を言わないから、無理なことしないで頂戴、ね」
無理ナコトシタリ、言ッタリ、ソリャ、オジョサン、アナタノコトデアルデス
「仲直りしましょうよ」
ワタシ、仲直リスルホド、仲悪クアリマセン
「ですけれど、マドロスさん、今晩はまた寒いのね、この毛布一枚じゃ、どうにもなりゃしない」
火ヲ焚クデス、夜通シ火ヲ焚イテ暖メテ上ゲルデス
(恐山の巻)

以上は青空文庫(作家別作品リスト:中里介山)でご覧になれます。(IT)

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