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この本の「おわりに」を上げておきます。
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自己と他者との間に、「どちらともとれるもの」あるいは「どちらでもないもの」の領域がある。中心に対する周縁、マジョリティに対するマイノリティとして位置づけられる領域である。この中間的な領域は、明確な他者=ソトの存在によって、ウチに取り込まれるが、常に中心からは区別され、場合によってソトに追いやられる。マンガをはじめとするポピュラーカルチャー作品でも、中心-周縁-外部の各領域は、何らかの形で印付けられると見てよい。そして周縁=マイノリティが、外部=他者へとはじき出されようとする力、あるいは周縁に位置するものが中心を志向する力が、往々にしてドラマを動かしていく推進力となる(なお、本書「はじめに」で伊藤公雄氏は〈他者〉は「マイノリテイとしてしばしば現れる」とされている。むろんその指摘は正しいが、しかしここではあえて、マイノリティと〈他者〉を区別する見方を立ててみたい)。
例えば、石ノ森章太郎(一九三八~一九九八)の代表作『サイボーグ009』(一九六四~)では、まずヒーロー群の九人全員が、悪の組織の「ブラックゴースト」によって拉致され、サイボーグに改造され、さらに反乱を起こして善玉に寝返ったという点で、外部から中心への運動がドラマを始動させている。しかし九人のヒーロー(ヒロイン)は、人間ならぬサイボーグであるという点で、中心ではなく周縁に位置せざるをえない。そもそも拉致される前の九人は女性の003を除いて、奴隷、不良、失業者、反政府主義者など、周縁性を色濃くまとっていた。さらに九人(+ギルモア博士)の内部にも、「男性」対「女性」、「白人」対「有色人種」、「成人・壮年」対「幼児・老年」といったマジョリティとマイノリティの対立が仕組まれており、その対立がドラマを紡ぎ出していくのである。
さて、本書の諸論文が取り上げた作品群は、幕末から第二次世界大戦を経て現代に至る時代を扱っているが、この時期はことさらに、中心-周縁-外部の構造がめまぐるしく交代していった時期である。徳川幕府を中心とする幕藩体制、士農工商の身分制度、鎖国による独我的世界観は、明治維新とともに崩壊し、天皇を頂点とする国民国家体制へと急速にシフトしていった。「日本」という自我が立ち上がるとともに、中国や欧米諸国が新たな他者として立ち現れた。かつての薩摩、長州、土佐といった藩は明らかに幕府に対して周縁であり、幕末のドラマは、周縁が中央に攻め上る物語として構成される。この時、方言が重要な役割を果たすのである。本稿執筆中の現在、たまたま放送中であるNHKの大河ドラマ「篤姫」(脚本・田渕久美子)では、西郷吉之助(隆盛)(小澤征悦)、大久保利通(原田泰造)といった薩摩の下級藩士が擬似的な薩摩弁を話すことによって、その周縁性を表している。ところが、篤姫(宮崎あおい)や小松帯刀(瑛太)といった上士階級の人々は、台詞の中に方言色をいっさい出さない。これは、薩摩藩の中でもマジョリティとマイノリティの対立があることを浮き彫りにしている。
ところで、吉村和真氏は、「漫画九州人の2大基本タイプ」(「新春鼎談 この愛すべき異彩の面々」『西日本新聞』二〇〇二年一月一日)という表において、マンガに現れる九州人を、西郷タイプとロックタイプに分類した。前者は、一目で九州人と分かる容姿、方言丸出し、貧しくてもたくましい、などの特徴を持ち、後者は端麗で都会的、標準語の使用にこだわる、孤独、冷めているといった特徴を持つとした。そして、前者のモデルは西郷隆盛、後者のモデルは大久保利通としているのである。確かに、西郷隆盛は土佐弁の坂本龍馬とともに、常に方言キャラクターとして描かれるのに対し、大久保利通は「篤姫」のように方言を話す場合がある一方で、標準語キャラクターとしての印象の方が強い(例:和月伸宏『るろうに剣心』ジャンプ・コミックス完全版06、二〇〇六年刊、八七頁など)。これは、明治の元勲として中央に上り詰めた大久保と、意志半ばにして郷土で敗れ去った西郷とのイメージの落差によるところが大きいであろう。西郷隆盛は最後まで周縁性をぬぐいきれないキャラクターなのである。
もう一つの例として、金水論文でも取り上げた「のらくろ」シリーズを見てみよう。一九三一年、『少年倶楽部』誌に登場したのらくろ(野良犬黒吉)は、文字通り「野良犬」の「黒犬」であり、かろうじて「猛犬軍」の二等卒に潜り込んだマイノリティの代表である。のらくろが失敗を重ねながらも、独特の機知を発揮して手柄を立て、出世していく様子に、大人社会から区別されたマイノリティである少年たちは自我を重ね合わせ、興奮して受け入れた。すなわちここでも、周縁から中央へと攻め上っていくヒーローの物語が見える。さらにこの作品(『のらくろ総攻撃』『のらくろ武勇談』等)では、熊(ロシア)、羊(満州)、豚(中国)というように、当時の国際情勢を反映した他者が描かれ、特に、豚のことばとして、欠損した言語であるピジン(アルヨ言葉)が使われていたのである。
本稿執筆者(金水)は特に言葉に興味を持っているため、言葉の面からの分析を試みたが、上に見たように、標準語、方言、ピジン等によって、「中心―周縁―他者」の構造がはっきりと印付けられていることが分かった。自己と他者の対立とその物語は、本書に収められた諸論文を読んでも分かるように、その内部にさまざまな揺らぎをはらんでいるのであり、それゆえに、自己と他者の間に「どちらともとれるもの」「どちらでもないもの」の層を置いてみることで、さらに解釈が深まる面もあるものと期待される。なぜ、物語の主人公は多くの場合、どこかしらに周縁性を身にまとっているのか。それは、作品の読者の誰しもが、「自分は絶対的な中心から外れたところに位置しているのではないか」という不安感を抱きながら生きているからであろう。だからこそ、読者は、マイノリティであるヒーロー(ヒロイン)に我が身を重ね、彼(彼女)が中央へと攻め上る旅に共感するのである。なお、周縁に身を置く視点設定は、自己と他者、ウチとソトの枠組みを揺さぶる強い批判的契機として機能しうる一方で、かえってその枠組みを強固にする方向にも機能しかねない点に注意すべきである。幕末物にしばしば見られる、明治維新を絶対的な「明るさ」として描く視点(司馬遼太郎に代表されるであろう)や、のらくろにおける猛犬軍の揺るぎなき正義性等が、そのような枠組み固定の危うさをよく表している。
さて、著者らの怠慢とわがままその他の諸事情ため発刊が遅延し、頓挫の危機にも直面した本書も、編集者・薗田美和さんのご努力によって、なんとか刊行にまでたどり着いた。末筆となったが、改めて著者一同を代表し、薗田さんに感謝の気持ちを捧げたい。(以上)
学科のバス旅行のしおりに投稿予定の原稿です。
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「おっぱいバレー」という映画がある。北九州を舞台にしながら、主役の綾瀬はるかやバレー部の少年たちを初め、福岡弁を話す人間が一切出てこない。不自然と言えば、不自然。特に、当地で育った方が見たら、さぞかしこそばゆい思いをされることだろう。風景はばりばり、戸畑なのに。似たような現象はいくらでも見つかる。テレビドラマ「Dr. コトー診療所」は、ロケ地が与那国島だそうだが、出てくる人々は共通語か、そうでなければ、いわゆる〈田舎ことば〉(田舎っぽいが、特定の地域を感じさせないヴァーチャル方言)を話しており、琉球語は片鱗も聞かれない。こういった問題を、映画やドラマの作り手の立場から見ると、コストパフォーマンスという観点が重要になってくるように思われる。
ここで言うパフォーマンスとは、なによりもまず伝達上の効率のことをさす。一番大事なのは、伝わりやすさ、即ちその言葉を使って、できるだけたくさんの人々に理解されるかどうかということである。この点で、共通語がもっとも高パフォーマンスであることは言うまでもない。日本語圏であれば、誰であれ、確実に通じるからである。
では、すべてのフィクションは共通語だけで作られればいいのかというと、そうとも言えない。方言には共通語にはない、別の効果がある。まず舞台が地方であれば、方言を含めたその地方らしさが作品のアクセントであったり、作品の重要なモチーフであったりする。また共通語基盤の作品の中で方言を話す人物が出てくれば、その人物は例えば"無教養""愚鈍""純朴"といったイメージをまとったキャラクターとして登場してくることだろう。キャラクターの描き分け、という点で、方言はとても重宝である。たとえば、2008年度下半期にNHKで放送されていた朝のテレビ小説「だんだん」では、双子の姉妹(三倉茉奈・佳奈が演じていた)が生まれてすぐ引き離され、京都と島根でそれぞれ育てられたという設定で、成人し、再会してもそれぞれ京都弁(舞子言葉)と島根弁を使い続けていた。これは特に、双子の姉妹を視聴者が区別しやすいように、方言を使い続けさせる必要があったためと推測される。
ところがここで、特定の方言を使用した場合に生じる、別の問題が生じる。方言がどれだけ"本物っぽい"かという点である。方言が中途半端に再現されると、地元の方にとってはこれほど不快なことはない。先の「だんだん」の例で言うと、ドラマの中で島根の人たちは何かというと「だんだん」という感謝の挨拶を口にする。ところが現実の、地元の人に聞いてみると、「だんだん」は必ず「だんだん、だんだん」と繰り返して使うのが普通で、「やさしくしてくれて、だんだん。」のような使い方は非常に変に聞こえるそうだ。
方言は"リアリティ"という独自の価値で計られる。リアリティが高いということは、つまり"本物"っぽい、ということで、一応"いいこと"と評価される。ところが、このリアリティを高めれば高めるほど、最初に述べた伝達上の効果が薄れるリスクを帯びる。つまり、広範な日本語使用者に通じにくくなるのである。特に青森の津軽方言とか、琉球のウチナーグチとか、土地の人以外にはほとんど通じない言葉は、よほど限定された効果をねらってのことでなければ使用できない。一般に、方言のクオリティ(=リアリティ)と、伝達容易性というパフォーマンスは相反関係にある。
次に、コストの面から考えてみよう。共通語は、伝達の効率において最高のパフォーマンスを有するとともに、コストにおいても最も経済的である。共通語の台詞は、脚本家なら誰でも書けるし、共通語で演じる役者は最も豊富に存在する。ところがいったん、方言を作品に導入するとなると、さまざまな問題が生じ、余計なコストが生じる。当該の方言で演じられる役者が十分調達できるとは限らず、調達できてもできなくても、"方言指導"という役割のスタッフを余分に雇わなければならない。方言指導者のもとで台本のチェックや、演技の確認など、余分の時間を費やすことになる。たとえ入念な方言指導が仮に実現できたとしても、役者によって方言再現能力の隔たりが大きいし、そもそも方言は演技のための言葉としての洗練を経ていないので、リアルであっても演技として成立しない、という場合も出てくる。そこで、ほとんどは共通語を基盤とし、わずかに文末や特定のセットフレーズに方言らしさをちりばめた、いわば"なんちゃって方言"でお茶を濁す、という処理に落ち着くことがしばしあである。「だんだん」の島根弁などはそのいい例であろう。また、初めから方言のリアリティ追求を諦め、ステレオタイプな〈田舎ことば〉で我慢しておくという手もある。〈田舎ことば〉はもともと役者の中に入っている演劇的言語の一部であり、コストゼロで導入できるのである。「Dr. コトー診療所」はまさしくそのように処理されていた。
ここまで書いてきて、二点気づかれることがある。一つは、共通語の本質である。共通語とは、パフォーマンス面においてもコスト面においても最も好ましい性質を持っていることが確認されたが、ある意味でこの言明は逆転している。つまり、近代以降、話し言葉においてコストパフォーマンスを上げるべく洗練を経て生き残ったのが共通語(標準語)だったのである。これは、書きことばにおけるいわゆる言文一致体の形成と平行している。
もう一点、いままで方言一般について述べてきたが、関西弁はその中で明らかに特殊であり、他の方言とは一線を画している。関西弁は、中世の能狂言は措くとしても、近世以後の浄瑠璃、歌舞伎、上方落語、にわか、漫才、曽我廼家五郎劇、松竹新喜劇、吉本新喜劇等々、長らく舞台言語として琢磨されてきたのであり、その歴史は共通語(~東京語~江戸語)よりも古い。そしてそれに見合うだけの、演技者の厚みがある。クオリティの高い関西弁を使いこなす役者を、老若男女、容易にそろえることができる。即ち、関西弁は他の方言から抜きんでて、コストパフォーマンスが高いのである。作品のアクセントとして関西弁キャラクターを配した作品は枚挙に暇がないし、登場人物すべて関西弁という作品だって、容易に成立する。このようなことは他の方言ではとうてい考えられない、関西弁独自の特質である。 (以上)
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以上の原稿を書くにあたって、このサイトに重要なヒントをいただきました。記して感謝します。
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