2013年1月25日 (金)

プルーストに役割語?

役割語に関係ありそうです。

鹿島茂・吉川一義 (2013) 「〈対談〉プルーストの一〇〇年」『図書』767号、2-14頁

(p. 6-7より、引用開始)

 吉川 二十代後半に博士論文を書くためにパリに三年半ほど滞在しましたが、プルーストの授業や講演会などで作中の会話が引用されるとフランス人が笑うんです。でも当時の僕には何が面白いのか全然分からなかった。

 プルーストの登場人物の話し言葉は人物によって独特な口調が使い分けられている。漱石の『吾輩は猫である』も『坊っちゃん』も、当時の知識人のバカ話は内容を要約しても面白くないけれど、登場人物たちの話しぶりや口調に性格が表れていて面白い。それと同じで『失われた時を求めて』でも、主人公一家に使える女中のフランソワーズの間違いだらけのフランス語とか、貴族嫌いを標榜しつつ実はスノッブのルグランダンの美文調の話し言葉とか、元大使ノルポワのいまや失われたありし日の外交官言葉とか、ソルボンヌ教授ブリショのでたらめな歴史知識とか、そういう話し言葉をプルーストは面白おかしく書いているんです。でも外国人には、会話のそうした面白さは理解しにくい。

 鹿島 日本語であってもそうした紋切り型のこっけいさを、紋切り型として味わう能力が徐々に欠けつつあるんですよ。僕らの上の世代、山田〓(ジャック)さんの『ボヴァリー夫人』の紋切り型はすさまじく上手い訳なんです。けれども、われわれにはその紋切り型の面白さを理解する力がなくなっている。我々の時代の紋切り型というものを探さなければいけないんだけど、それもすごく流れが激しいから難しい。

 吉川 フローベールの時代もプルーストの時代も、どの社会階層の人かで話す言葉も違ったわけです。プルーストは文体模写が得意だったことでもわかりますが、話し言葉の違いについての感性が鋭くて……。

 鹿島 すごいですね、あれは。

 吉川 いまは亡き平岡篤頼さんが『プルースト全集』(筑摩書房)第一四巻に、当時ダイヤモンド偽造で世間を騒がせた「ルモワーヌ事件」を題材に、プルーストがバルザック、フローベール、ミシュレ,ゴンクールなどの文体を使い分けた文体模写を訳しておられますが、模倣された作家の文体を全部ちゃんと訳し分けておられて、みごとな翻訳です。

 鹿島 日本でも、明治とか大正期にはそういう文体模写がけっこうあった、と河盛好蔵先生にうかがったことがあります。「かけうどんを食べる」というのを島崎藤村風や宇野浩二風に言ったりする文体模写が新聞のコラムに載っていたと聞きました。

(引用終わり)

2012年12月 3日 (月)

『ハリー・ポッター』の翻訳についての問題を指摘したサイト

J.K.ローリングの代表作である『ハリー・ポッター』シリーズは、世界的なベストセラーになっていますが、日本語版の翻訳(松岡訳)については賛否両論があるようです。以下では、ハリー・ポッター日本語版の翻訳について問題を指摘しているサイトをリストアップしておきます。(大田垣)

2011年2月21日 (月)

ハリー・ポッターの中国語、日本語、ベトナム語版サイトマップ

勅使河原三保子さんのご報告により、下記のサイトを紹介します。

役割語については、ダンブルドアの〈老人語〉について解説があります。このサイトの筆者は、ダンブルドアのことばは広島弁を中心としていくつかの方言が混ぜ合わされていると分析しています。

http://www.cjvlang.com/ja/Hpotter/index.html

以下に、サイトの序文を引用します。

このウェブページは、ハリー・ポッターの中国語訳(大陸版と台湾版)、日本語訳、ベトナム語訳の4つの訳本を主に言葉の面 から比較した英語ウェブサイトのサイトマップです。

日本語とベトナム語は元々中国語と全然違う系統の言葉でしたが、両方とも長い間中国語から深い影響を受けて来ました。現代に入っても、西洋からの新しい技術と概念を表現するために、3カ国語は「漢語」という共通 の言葉をベースに新しい語彙を作り、その語彙は3カ国語の顕著な共通点になっています。しかし、時代が変わり、戦後の日本語は徐々に中国語を離れ、カタカナを通 じて西洋言語から語彙を直接取り入れる場合が多くなりました。ベトナム語も20世紀に漢字を捨てて「漢字文化圏」から脱皮しました。本サイトでは、第三者である英語からの翻訳を通 じてこの3カ国語の共通点と相違点を点検しようとしました。

ハリー・ポッターは中国大陸と台湾で別々に翻訳されているので、大陸の「普通話」と台湾の「国語」の違いや翻訳のアプローチの違いもこのサイトで垣間見することができます。

本サイトは英語で書かれていますが、言葉を直接比較する表が多く、英語の苦手な方でも充分楽しめます。中国語の簡体字、繁体字を含め、四種類の文字が使われていますが、文字は全部グラフィックになっているので特別 なソフトは要りません。中国語はピンイン表記もついています。(なお、一部ではUnicodeが使われていますのでご了承ください)。

2010年3月13日 (土)

ご投稿2件

広島にお住まいの岩田さんから、役割語についてご投稿を戴きました。

1.関西弁キャラについて

シュレックが関西弁をしゃべることについて、私はちょっとしたひっかかりがありました。先日の講演でもおっしゃっていたように、関西の色が強過ぎて、例えば、スコットランド人英語などの翻訳には合わないのではないかとのことでした。

ローグギャラクシーというPS2のソフトがあります。そこに出てくるサイモンという宇宙人は、関西弁をしゃべります。このゲームは音声がでて、台詞が音で入ってくるんですが、どういうわけか、サイモンは関東人の声優さんを使っているため、不思議な関西弁を話します。このエセ関西弁は、最初非常に抵抗を感じるんですが、慣れてくると、関西人というイメージからは独立した関西弁としてうまく合っているような気がするのです。つまり、関西色を消しつつ、関西弁キャラが成り立つには、このエセ関西弁が役立っているように思えるのです。

CMでも最近、エセ関西弁がちょろちょろ聞こえます。わざと使っているとしたら面白いなあと思っている次第です。

2. ドメニコ・ラガナの著作から

ドメニコラガナ『日本語とわたし』 1975

その中で著者は、対談などで外国人が日本語を話すと、編集部が勝手に外人的日本語にいじって変えてしまうということをぐじぐじぐじぐじ文句を言っています。これって、まさに役割語の話だなと思います。読み物としては愚痴っぽくて嫌いですが、ちょっと面白い点がちらほら。

1.こういう役割語的な言い方は、アルゼンチンには一部の子供マンガにしかない。

2.役割語を新聞や文芸雑誌でまで使わないでほしい。

3.~アルカ?という質問はやめてほしい。

金水先生の本があと35年早く出版されていたら彼の愚痴はちょっと弱まったのかなあなどと思っています。個人的には、1975年の時点でも、アルヨ言葉が中国人に特化していないんだなあということがおもしろかったです。

2009年10月20日 (火)

「ハリー・ポッター」シリーズの珍訳・誤訳

知人の国語学者のK. N. さんが、こんなサイトを教えて下さいました。役割語の観点から見ると、とても興味深いです。

おもしろいHPを見つけたので紹介します。
 もしご存じでしたら、あしからず。

絵で見るハリー・ポッター日本語版誤訳・珍訳
http://islaya.sarashi.com/haripota01.html

ここが変だよハリーポッター日本語版
http://www.geocities.jp/hendayo_hp/

元英語教師の妻が爆笑していました。
これって役割語の失敗例ですよね。

2008年2月13日 (水)

ハマータウンの野郎ども

 「学校教育と労働が複雑に絡み合う結び目を解きほぐす、先駆的な文化批評の試み」(ちくま書房HPでの紹介文)であり、「日本の『ツッパリ』文化」との比較的考察という観点(表智之「マンガと現代思想」『差別と向き合うマンガたち』188頁など)から大変興味深いのですが、インタビューを再現した部分は翻訳の用例としても拾えそうです。「ヤンキー言葉」のほか「おじさん言葉」も続出です(IT)。

Photo_3

ポール・ウィリス[Willis, Paul E.](著)
熊沢 誠、山田 潤(訳)
『ハマータウンの野郎ども』
[原書名:LEARNING TO LABOUR
ちくま学芸文庫、1996年
ISBN:4480082964

【目次】
序章 「落ちこぼれ」の文化
第1章 対抗文化の諸相
第2章 対抗文化の重層構造
第3章 教室から工場へ
第4章 洞察の光
第5章 制約の影
第6章 イデオロギーの役割
第7章 文化と再生産の理論のために
第8章 月曜の朝の憂鬱と希望

【本文より】

ウィル あの公園のことでもさ、ウェビィのおっちょこちょいにはまいったぜ。おれとエディでさ、うまくもぐり込んでたんだ。そしたら公園の番人がまわってきやがった、なにか見つけて走ってくみたいだったな。で、おれとエディは反対側に隠れて、二人とも猿みたいにしゃがみこんでたのさ。ところだウェビィのやつがぼんやり立ってやがんだ。番人が「おい、そこのおまえ、出て行かんか、公園から出ろ、おまえらは入っちゃいかんのだ」。そんなことを言っておれたちの近くを、おれとエディが坐り込んでたところを通り過ぎてさ、「おまえじゃない、ほかにもいるんだ、おまえはここにいたんだからな」なんて言うもんだからさウェビィのやつ、「ぼくじゃないですよ、そりゃ、あのう・・・・・・」ってなぐあいに、いまにもみんなベラベラしゃべっちまうようすなんだ、そうだったよな?(67頁)

教頭 生徒を叱りつけるときはね、連中にぐっと肩身の狭い思いをさせるというふうでなきゃだめなんです。(中略―引用者)、教師なり、教頭である私なりが、こんどのことではずいぶん困惑しているってことを連中にわからせるんですな。それで、なぜこんな困った事態になったかをこんこんと説いて聞かせて、まあ、それというのも自分たちが迷惑のもとになってるんだってことをわからせるんですわ。そこまで行きゃね、叱り方としては完璧ですね。「このばか野郎が」って怒鳴ってみたところで何もなりゃしません。反対に怒鳴り返されるのが落ちでね。(165頁)

校長 かりに五年生の生徒に処罰を与えねばならないとしますとね、そんなときは面倒なことを避けて、ただ生徒を私のこの席に坐らせるんですよ。そうすれば、まあたいがい自分でわかるようになります。そういう生徒たちにはよく言ってやるんですわ、「この件については私としてはどうすればいいんだろう、きみはもう五年生だからよくわかるはずだね。こんな場合どうすべきか。私の椅子に坐りたまえ、私がきみのつもりでそっちに立つから、さあ、この件の始末をどうするか私に言ってみなさい」(166-167頁)

2007年10月25日 (木)

〈性〉と日本語

著者よりいただきました。

Photo

中村桃子(2007)

『〈性〉と日本語』

NHKブックス
ISBN 9784140910962

【目次】

はじめに  
 日本語ブームの背景
 言語資源という視点
 「女ことば」と「男ことば」に見る創造性
 本書の全体像

Ⅰ 「わたし」はことばでつくられる

第一章 ことばとアイデンティティ 

 1 アイデンティティはどこから来るか
     「女らしい」藤原先生
     不自然な「女ことば」
     本質主義のアイデンティティ
     構造主義のアイデンティティ
     言語資源としての「ことば」
     フィクションの会話と現実の会話
     メディアがつくる言語資源
     「ずれた言語行為」の創造性

 2 非対称的な「女ことば」と「男ことば」
     標準語としての「女/男ことば」
     インフォーマルな「女/男ことば」
     「女/男ことば」が描く人物像の違い
     「女ことば」とはルールである

 3 言語資源が切り開く地平
     繰り返される「ついて語る」言説
     女訓書からエチケット本まで
     「標準語」に隠された男性性
     「標準語」「女/男ことば」を分けるもの
     言語資源が明かす三つの点

第二章 「翻訳」のことばを読む―再生産される言語資源
       『ハリー・ポッター』の中の「女ことば」
       複数の声が聞こえる

 1 翻訳がつくるアイデンティティ
     翻訳小説の中の擬似方言
     「方言」の誕生
     正しい「標準語」・劣った「方言」
     再生産される差別  

 2 新しい「男ことば」の登場―「です・ます」から「ス」へ
     「擬似方言」の消滅
     変わる翻訳の標準語
     「ぼく」から「おれ」へ
     「おれ」は熱血ヒーロー
     貴様と俺
     近すぎる「おれ」と「おまえ」
     『スラムダンク』の新敬語
     上下関係から親疎関係へ   

 3 変わりゆく「親しさ」の表現
     スターの語る「ぼく・きみ・さ」
     「きみ」と「ぼく」がつくる男の絆
     「旧男ことば」はどこへ行く
     区別しつづける言語資源
     「女ことば」は絆と結びつくか    

Ⅱ 日本語に刻まれた〈性〉

第三章 セクシュアリティと日本語

 1 恋愛小説の言語資源
     ハーレクイン・ロマンスの恋愛描写
     日本の恋愛小説に身体描写の少ない理由
     近づくほどに遠ざかる男女のことば

 2 異性愛はことばに宿る
     古代ローマのセクシュアリティ
     なぜ異性愛は規範となったのか
     〈女〉と〈男〉の中間に位置する人びと
     セックスとジェンダー

 3 〈男〉は中心、〈女〉は例外―異性愛から見た言語資源
     「おれ」と「あたし」のエロス
     「女/男ことば」とジェンダーの結びつき
     「ていねいな言葉づかい」という規範
     言葉づかいが左右する自己イメージ
     男のスカート姿はなぜ目立つ?
     男女で異なる規範性
     「おネエことば」の反対は?

第四章 変わりゆく異性愛のことば
      ―「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」


 1 スパムメールに刻まれた異性愛の構造
     スパムメールの修辞学
     「女=受動的」がもたらす悲劇

 2 男たちの共同体
     向かい合えない男たち
     ホモソーシャルな社会とは
     女性同性愛に対する視点
     「男になる」ことの意味
     異性愛への強迫観念
     スパムメールの中の「おれ」
     恋愛資本主義の台頭
     スポーツ新聞のホモソーシャル・ファンタジー

 3 親しさを希求することばの格闘
     母子関係に還元される恋愛
     あらたな関係としての家族
     血縁を超えた家族の模索
     母親になりたい

Ⅲ 創造する言語行為

第五章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか

 1 少女は言葉づかいの規範を破りつづけてきた
     幻想と現実の再生産
     「ぼく」と言い始めた明治の女子大生

 2 新しい〈少女性〉の創造
     男女に押しつけられた成長過程の違い
     異性愛市場の子どもたち
     〈おませ〉か〈おくて〉か
     〈男装〉への憧れ
     さまざまな自称詞の創造

 3 押しつけられる自称詞
     「わたし」と自称することへの抵抗感
     ひそかに埋め込まれる異性愛規範
     二重の抑圧
    
 4 「言葉づかいへの批判」今昔
     なぜ「女ことば」は伝統なのか
     生き延びるために選ばれることば
     「最近の乱れ」説の効用
     なぜ女のことばづかいが気になるのか

 5 少女の「男ことば」に萌える男たち
     「無垢な少女」幻想
     未熟なエロスの商品化

第六章 欲望を創造する―消費社会と〈性〉
 
 1 ファッション誌という共同体
     消費と結びついたアイデンティティ
     雑誌がつくる書き手と読者
     雑誌共同体をつくる三つの手法
     イデオロギーによる支配
     欲望を煽り、達成感を抱かせる

 2 女性誌と男性誌―親しみの相違
     女性誌は平等・男性誌は階層的
     上下関係にもとづくホモソーシャリティ
     ファッションは課題、雑誌はカウンセラー
     ファッションはいかに男性化されたか

 3 新しい男性雑誌共同体
     男性も「着まわし」の時代
     ファッションを「大研究」する
     男性誌は学校、読者は生徒
     モノローグによるコミュニケーション
     異性愛を求める消費社会

終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える
 
 1 日本語という不安
     あるがままに愛でるべき日本語?
     日本語本ブームのメカニズム
     「正しい日本語」の問題点
     「ずれた言語行為」の可能性

 2 日本語をみがくために
     言語イデオロギー
     メタ言説の権力
     「正しい日本語」がつくる分断
     矛盾ゆえに強化される言語イデオロギー
     「男ことばの乱れ」はなぜ意識されないのか

 3 開かれた伝統にむけて
     「専門家」のメタ言説を相対化する
     「乱れ」言説から自由になる
     ことばに対する「常識」に問いを発する

参考文献
あとがき

2007年10月10日 (水)

『風の谷のナウシカ』と役割語

大阪大学大学院文学研究科の米井力也先生から、下記の論文をいただきました。

米井力也「『風の谷のナウシカ』と役割語―映像翻訳論覚書―」
 『日本語講座年報』第3号、pp.3-6、大阪外国語大学日本語講座、2005年12月

以下に、ファイルを掲載させていただきます。

「komei2005.pdf」をダウンロード

また、下記の研究をご紹介いただきました。

梅崎麻衣「ドイツにおける日本アニメーションの映像翻訳に関する調査研究」
(財団法人徳間記念アニメーション文化財団年報 2006-2007)


こちらの論文は、三鷹の森ジブリ美術館のホームページ
(→「美術館について」→「年報別冊 平成17 年度 アニメーション文化調査研究活動助成制度 研究成果発表」)
からダウンロードできます。

「わしは孔子じゃ」

Mさまにご教授いただきました。引用させていただきます。

 私が思わず吹き出してしまうのは、大川総裁に呼び出された人たちの霊がおかしな言葉を口にすることである。たとえば、孔子を呼び出すと、孔子は「わしは孔子じゃ」と言って現れる。孔子が日本語を話すのがおかしいというわけではない。なんせ霊なのだから、古代支那語を現代日本語に翻訳するぐらい、別に難しくはなかろう。私がおかしいと思うのは、孔子が自ら「孔子じゃ」と名乗ることである。
 孔子の「子」というのは敬称で、普通「先生」と訳す。「孔子」とは「孔先生」という意味である。我々は便宜的に「孔子先生」「孔子様」と言うけれど、孔子は自ら「わしは孔子じゃ」と名乗って出現することはありえない。
 現に『論語』の中では、孔子は自ら「丘(きゅう)」と名乗っている。姓が孔、名が丘だからだ。

(呉智英2004『言葉の常備薬』双葉社、pp.60-61)

トニー谷ざんす

Photo_3 村松友視(1999)
『トニー谷ざんす』
幻冬舎アウトロー文庫
ISBN 4877288252

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