2009年7月24日 (金)

日本語における中心と周縁

この本の「おわりに」を上げておきます。

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 自己と他者との間に、「どちらともとれるもの」あるいは「どちらでもないもの」の領域がある。中心に対する周縁、マジョリティに対するマイノリティとして位置づけられる領域である。この中間的な領域は、明確な他者=ソトの存在によって、ウチに取り込まれるが、常に中心からは区別され、場合によってソトに追いやられる。マンガをはじめとするポピュラーカルチャー作品でも、中心-周縁-外部の各領域は、何らかの形で印付けられると見てよい。そして周縁=マイノリティが、外部=他者へとはじき出されようとする力、あるいは周縁に位置するものが中心を志向する力が、往々にしてドラマを動かしていく推進力となる(なお、本書「はじめに」で伊藤公雄氏は〈他者〉は「マイノリテイとしてしばしば現れる」とされている。むろんその指摘は正しいが、しかしここではあえて、マイノリティと〈他者〉を区別する見方を立ててみたい)。

 例えば、石ノ森章太郎(一九三八~一九九八)の代表作『サイボーグ009』(一九六四~)では、まずヒーロー群の九人全員が、悪の組織の「ブラックゴースト」によって拉致され、サイボーグに改造され、さらに反乱を起こして善玉に寝返ったという点で、外部から中心への運動がドラマを始動させている。しかし九人のヒーロー(ヒロイン)は、人間ならぬサイボーグであるという点で、中心ではなく周縁に位置せざるをえない。そもそも拉致される前の九人は女性の003を除いて、奴隷、不良、失業者、反政府主義者など、周縁性を色濃くまとっていた。さらに九人(+ギルモア博士)の内部にも、「男性」対「女性」、「白人」対「有色人種」、「成人・壮年」対「幼児・老年」といったマジョリティとマイノリティの対立が仕組まれており、その対立がドラマを紡ぎ出していくのである。

 さて、本書の諸論文が取り上げた作品群は、幕末から第二次世界大戦を経て現代に至る時代を扱っているが、この時期はことさらに、中心-周縁-外部の構造がめまぐるしく交代していった時期である。徳川幕府を中心とする幕藩体制、士農工商の身分制度、鎖国による独我的世界観は、明治維新とともに崩壊し、天皇を頂点とする国民国家体制へと急速にシフトしていった。「日本」という自我が立ち上がるとともに、中国や欧米諸国が新たな他者として立ち現れた。かつての薩摩、長州、土佐といった藩は明らかに幕府に対して周縁であり、幕末のドラマは、周縁が中央に攻め上る物語として構成される。この時、方言が重要な役割を果たすのである。本稿執筆中の現在、たまたま放送中であるNHKの大河ドラマ「篤姫」(脚本・田渕久美子)では、西郷吉之助(隆盛)(小澤征悦)、大久保利通(原田泰造)といった薩摩の下級藩士が擬似的な薩摩弁を話すことによって、その周縁性を表している。ところが、篤姫(宮崎あおい)や小松帯刀(瑛太)といった上士階級の人々は、台詞の中に方言色をいっさい出さない。これは、薩摩藩の中でもマジョリティとマイノリティの対立があることを浮き彫りにしている。

 ところで、吉村和真氏は、「漫画九州人の2大基本タイプ」(「新春鼎談 この愛すべき異彩の面々」『西日本新聞』二〇〇二年一月一日)という表において、マンガに現れる九州人を、西郷タイプとロックタイプに分類した。前者は、一目で九州人と分かる容姿、方言丸出し、貧しくてもたくましい、などの特徴を持ち、後者は端麗で都会的、標準語の使用にこだわる、孤独、冷めているといった特徴を持つとした。そして、前者のモデルは西郷隆盛、後者のモデルは大久保利通としているのである。確かに、西郷隆盛は土佐弁の坂本龍馬とともに、常に方言キャラクターとして描かれるのに対し、大久保利通は「篤姫」のように方言を話す場合がある一方で、標準語キャラクターとしての印象の方が強い(例:和月伸宏『るろうに剣心』ジャンプ・コミックス完全版06、二〇〇六年刊、八七頁など)。これは、明治の元勲として中央に上り詰めた大久保と、意志半ばにして郷土で敗れ去った西郷とのイメージの落差によるところが大きいであろう。西郷隆盛は最後まで周縁性をぬぐいきれないキャラクターなのである。

 もう一つの例として、金水論文でも取り上げた「のらくろ」シリーズを見てみよう。一九三一年、『少年倶楽部』誌に登場したのらくろ(野良犬黒吉)は、文字通り「野良犬」の「黒犬」であり、かろうじて「猛犬軍」の二等卒に潜り込んだマイノリティの代表である。のらくろが失敗を重ねながらも、独特の機知を発揮して手柄を立て、出世していく様子に、大人社会から区別されたマイノリティである少年たちは自我を重ね合わせ、興奮して受け入れた。すなわちここでも、周縁から中央へと攻め上っていくヒーローの物語が見える。さらにこの作品(『のらくろ総攻撃』『のらくろ武勇談』等)では、熊(ロシア)、羊(満州)、豚(中国)というように、当時の国際情勢を反映した他者が描かれ、特に、豚のことばとして、欠損した言語であるピジン(アルヨ言葉)が使われていたのである。

 本稿執筆者(金水)は特に言葉に興味を持っているため、言葉の面からの分析を試みたが、上に見たように、標準語、方言、ピジン等によって、「中心―周縁―他者」の構造がはっきりと印付けられていることが分かった。自己と他者の対立とその物語は、本書に収められた諸論文を読んでも分かるように、その内部にさまざまな揺らぎをはらんでいるのであり、それゆえに、自己と他者の間に「どちらともとれるもの」「どちらでもないもの」の層を置いてみることで、さらに解釈が深まる面もあるものと期待される。なぜ、物語の主人公は多くの場合、どこかしらに周縁性を身にまとっているのか。それは、作品の読者の誰しもが、「自分は絶対的な中心から外れたところに位置しているのではないか」という不安感を抱きながら生きているからであろう。だからこそ、読者は、マイノリティであるヒーロー(ヒロイン)に我が身を重ね、彼(彼女)が中央へと攻め上る旅に共感するのである。なお、周縁に身を置く視点設定は、自己と他者、ウチとソトの枠組みを揺さぶる強い批判的契機として機能しうる一方で、かえってその枠組みを強固にする方向にも機能しかねない点に注意すべきである。幕末物にしばしば見られる、明治維新を絶対的な「明るさ」として描く視点(司馬遼太郎に代表されるであろう)や、のらくろにおける猛犬軍の揺るぎなき正義性等が、そのような枠組み固定の危うさをよく表している。

 さて、著者らの怠慢とわがままその他の諸事情ため発刊が遅延し、頓挫の危機にも直面した本書も、編集者・薗田美和さんのご努力によって、なんとか刊行にまでたどり着いた。末筆となったが、改めて著者一同を代表し、薗田さんに感謝の気持ちを捧げたい。(以上)

2009年7月20日 (月)

方言のコストパフォーマンス

学科のバス旅行のしおりに投稿予定の原稿です。

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 「おっぱいバレー」という映画がある。北九州を舞台にしながら、主役の綾瀬はるかやバレー部の少年たちを初め、福岡弁を話す人間が一切出てこない。不自然と言えば、不自然。特に、当地で育った方が見たら、さぞかしこそばゆい思いをされることだろう。風景はばりばり、戸畑なのに。似たような現象はいくらでも見つかる。テレビドラマ「Dr. コトー診療所」は、ロケ地が与那国島だそうだが、出てくる人々は共通語か、そうでなければ、いわゆる〈田舎ことば〉(田舎っぽいが、特定の地域を感じさせないヴァーチャル方言)を話しており、琉球語は片鱗も聞かれない。こういった問題を、映画やドラマの作り手の立場から見ると、コストパフォーマンスという観点が重要になってくるように思われる。

 ここで言うパフォーマンスとは、なによりもまず伝達上の効率のことをさす。一番大事なのは、伝わりやすさ、即ちその言葉を使って、できるだけたくさんの人々に理解されるかどうかということである。この点で、共通語がもっとも高パフォーマンスであることは言うまでもない。日本語圏であれば、誰であれ、確実に通じるからである。

 では、すべてのフィクションは共通語だけで作られればいいのかというと、そうとも言えない。方言には共通語にはない、別の効果がある。まず舞台が地方であれば、方言を含めたその地方らしさが作品のアクセントであったり、作品の重要なモチーフであったりする。また共通語基盤の作品の中で方言を話す人物が出てくれば、その人物は例えば"無教養""愚鈍""純朴"といったイメージをまとったキャラクターとして登場してくることだろう。キャラクターの描き分け、という点で、方言はとても重宝である。たとえば、2008年度下半期にNHKで放送されていた朝のテレビ小説「だんだん」では、双子の姉妹(三倉茉奈・佳奈が演じていた)が生まれてすぐ引き離され、京都と島根でそれぞれ育てられたという設定で、成人し、再会してもそれぞれ京都弁(舞子言葉)と島根弁を使い続けていた。これは特に、双子の姉妹を視聴者が区別しやすいように、方言を使い続けさせる必要があったためと推測される。

 ところがここで、特定の方言を使用した場合に生じる、別の問題が生じる。方言がどれだけ"本物っぽい"かという点である。方言が中途半端に再現されると、地元の方にとってはこれほど不快なことはない。先の「だんだん」の例で言うと、ドラマの中で島根の人たちは何かというと「だんだん」という感謝の挨拶を口にする。ところが現実の、地元の人に聞いてみると、「だんだん」は必ず「だんだん、だんだん」と繰り返して使うのが普通で、「やさしくしてくれて、だんだん。」のような使い方は非常に変に聞こえるそうだ。

 方言は"リアリティ"という独自の価値で計られる。リアリティが高いということは、つまり"本物"っぽい、ということで、一応"いいこと"と評価される。ところが、このリアリティを高めれば高めるほど、最初に述べた伝達上の効果が薄れるリスクを帯びる。つまり、広範な日本語使用者に通じにくくなるのである。特に青森の津軽方言とか、琉球のウチナーグチとか、土地の人以外にはほとんど通じない言葉は、よほど限定された効果をねらってのことでなければ使用できない。一般に、方言のクオリティ(=リアリティ)と、伝達容易性というパフォーマンスは相反関係にある。

 次に、コストの面から考えてみよう。共通語は、伝達の効率において最高のパフォーマンスを有するとともに、コストにおいても最も経済的である。共通語の台詞は、脚本家なら誰でも書けるし、共通語で演じる役者は最も豊富に存在する。ところがいったん、方言を作品に導入するとなると、さまざまな問題が生じ、余計なコストが生じる。当該の方言で演じられる役者が十分調達できるとは限らず、調達できてもできなくても、"方言指導"という役割のスタッフを余分に雇わなければならない。方言指導者のもとで台本のチェックや、演技の確認など、余分の時間を費やすことになる。たとえ入念な方言指導が仮に実現できたとしても、役者によって方言再現能力の隔たりが大きいし、そもそも方言は演技のための言葉としての洗練を経ていないので、リアルであっても演技として成立しない、という場合も出てくる。そこで、ほとんどは共通語を基盤とし、わずかに文末や特定のセットフレーズに方言らしさをちりばめた、いわば"なんちゃって方言"でお茶を濁す、という処理に落ち着くことがしばしあである。「だんだん」の島根弁などはそのいい例であろう。また、初めから方言のリアリティ追求を諦め、ステレオタイプな〈田舎ことば〉で我慢しておくという手もある。〈田舎ことば〉はもともと役者の中に入っている演劇的言語の一部であり、コストゼロで導入できるのである。「Dr. コトー診療所」はまさしくそのように処理されていた。

 ここまで書いてきて、二点気づかれることがある。一つは、共通語の本質である。共通語とは、パフォーマンス面においてもコスト面においても最も好ましい性質を持っていることが確認されたが、ある意味でこの言明は逆転している。つまり、近代以降、話し言葉においてコストパフォーマンスを上げるべく洗練を経て生き残ったのが共通語(標準語)だったのである。これは、書きことばにおけるいわゆる言文一致体の形成と平行している。

 もう一点、いままで方言一般について述べてきたが、関西弁はその中で明らかに特殊であり、他の方言とは一線を画している。関西弁は、中世の能狂言は措くとしても、近世以後の浄瑠璃、歌舞伎、上方落語、にわか、漫才、曽我廼家五郎劇、松竹新喜劇、吉本新喜劇等々、長らく舞台言語として琢磨されてきたのであり、その歴史は共通語(~東京語~江戸語)よりも古い。そしてそれに見合うだけの、演技者の厚みがある。クオリティの高い関西弁を使いこなす役者を、老若男女、容易にそろえることができる。即ち、関西弁は他の方言から抜きんでて、コストパフォーマンスが高いのである。作品のアクセントとして関西弁キャラクターを配した作品は枚挙に暇がないし、登場人物すべて関西弁という作品だって、容易に成立する。このようなことは他の方言ではとうてい考えられない、関西弁独自の特質である。  (以上)

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以上の原稿を書くにあたって、このサイトに重要なヒントをいただきました。記して感謝します。

2007年12月29日 (土)

月刊言語「日本語のスタイル」

月刊『言語』2008年1月号 (Vol. 37, No. 1)  ISSN: 0287-1696
 
特集名:  日本語のスタイル――その表現力と創造性 
 
定価:  980 円 (A5判・128頁) 

特集内容:
日本語には方言や若者言葉、敬語といった多様性が見られるが、一人の人が用いる日本語の中でも様々なスタイルが使い分けられ、特に自己表現やコミュニケーションなどの対人戦略において効果を発揮している。それぞれのスタイルは言語構造にどのように現われているのか、またその使い分けが担う機能とは何か。その実態に光を当て、明示的に分析することから、言語の本質に迫る新たな研究領野が拓かれる。 

主要目次:

スタイルの使い分けとコミュニケーション(渋谷勝己) pp. 18-25

一人の人が使い分けるさまざまな日本語のスタイルは、コミュニケーションや自己表現において大きな役割を果たしている。スタイルの形式と機能、その切り換えの実態を整理し、言語現象としての本質に迫る。

依頼と謝罪における働きかけのスタイル(熊谷智子) pp. 26-33

日本人はすぐ謝るとよく言われる。これは理論的には自分を不利な立場に置くが、実は一種の対人行動スタイルとして機能している。外国人との対照もふまえて、日本人のコミュニケーション特性を浮かび上がらせる。

新聞にみる話しことばの変遷(土屋礼子) pp. 34-39

明治期以降、新聞は知識人から庶民へと読者層を拡大していく努力の中で、記事に口語体を取り入れるようになった。マスメディアにおける言文一致の経緯をたどり、そこで試みられたさまざまな文体を紹介する。

ケータイ/ウェブの表現スタイル(松田美佐) pp. 40-45

ケータイ・メールやウェブでやり取りされている見慣れない日本語の実態とは? 入力方法の特性ややり取りの作法、受け手との関係性といった条件の下でカスタマイズされていく新しい表現スタイルの背景を探る。

関西若年層にみる東京語の使用(高木千恵) pp. 46-51

現代の若者の方言使用においては、二次元的なコード切り換えにとどまらず、より複雑な構造と繊細な機微に通じたスタイル切り換えが見られる。そのリアルな使用状況を捉えることから、方言研究の新たな可能性が見出せる。

コミュニケーション・文法とキャラクタの関わり(金田純平・澤田浩子・定延利之) pp. 52-59

話し手の心内に潜むキャラクタは、みなそれぞれの得意技を持っており、話し手はその得意技に応じて、発話キャラクタを発動する。コミュニケーションと文法の両面に顔をのぞかせるキャラクタたちの実態を観察する。

音声による人物像の表現と知覚(勅使河原三保子) pp. 60-65

我々の話し声の音声的特徴は聞き手に様々な印象を与えるが、その印象は必ずしも話し手の特徴と一致しない。話し手と印象の対応を扱った研究を通して、音声スタイルが日常生活やアニメ作品で果たす役割を考察する。

汗と涙のシンデレラ――サクセス・ストーリーの語り方(山口治彦) pp. 66-71

体験談のような「物語」にも、定型的な語り方のスタイルが存在する。その「型」は、どのように立ち現れ、どのような効果を上げるのか。成功物語を例に、語り手と聞き手が共同するスタイル生成の実態を探る。

2007年11月25日 (日)

言と文の日本語史

下記の論文の掲載雑誌が公刊されました。

金水 敏 (2007.11.27) 「言と文の日本語史」 『文学』第8巻・第6号(11, 12月号), pp. 2-13, 岩波書店.

2007年11月 2日 (金)

聞いておぼえる関西弁入門

こちらでご紹介した本の新訂版です。

Photo_5真田信治(監修)
岡本牧子・氏原庸子(著)

『新訂版
聞いておぼえる関西(大阪)弁入門



ひつじ書房、2006年
ISBN 489476296

【目次】


まえがき
テキストの使い方
用語・記号の説明

UNIT1 もう がまんでけへん 動詞の否定形
UNIT2 勉強せな あかん 義務・必要の表現
UNIT3 借りても ええか? 許可・禁止の表現
コラム1 関西人が共通語と思い込んでる「隠れ関西弁」
UNIT4 見ててや 依頼の表現
UNIT5 テレビ見んと 寝ぇ 命令の表現
コラム2 一拍語を二拍語的に話す
UNIT6 よう わからん 可能表現の否定
コラム3 「おばんざいやさん」に行こう!!
UNIT7 何してはるの? 尊敬の表現
UNIT8 行くんやったら 買《こ》うてきて 仮定・推量の表現
コラム4 イ形容詞の「イ」抜け
UNIT9 結婚しよってん 第三者の行為の表現
UNIT10 ついに0点《れぇてん》 とってしもた 残念・完了の表現
UNIT11 なんで? お金ないさかい 原因・理由の表現
UNIT12 そんなこと 言うかいな 疑問・強い否定の終助詞
UNIT13 何すんねん! 文末の表現Ⅰ
コラム5 大阪府言語地図
UNIT14 値札 つけとるわ 進行・状態の表現
UNIT15 いっぺん 食べてみ 軽い命令の表現
コラム6 意向形「V(よ)う」の「ウ」抜け
UNIT16 そんなん 買《こ》う たかて・・・ あきらめの表現
UNIT17 やめときぃ 準備・勧めの表現
コラム7 イ形容詞のウ音便
UNIT18 ええやんか 文末の表現Ⅱ
コラム8 ボケとツッコミ
UNIT19 何でも 買《こ》うたった やり・もらいの表現
UNIT20 なんも みみっちない 全否定の表現
コラム9 ネオ方言(真田信治)

問題のスクリプト
問題の解答
単語リスト
主要参考書
あとがき
UNIT18 

2007年10月19日 (金)

集団語辞典

Photo 米川明彦編(2000)
『集団語辞典』
東京堂出版
ISBN 449010538X

沖縄ナンクル読本

Photo 下川裕治・篠原 章 編著(2002)
『沖縄ナンクル読本』
講談社文庫
ISBN 4062734699

2007年10月10日 (水)

ことばの歴史学

Photo_4 小林千草(1998)
『ことばの歴史学 源氏物語から若者ことばまで』
丸善ライブラリー
ISBN 4621052802

関西(大阪)弁入門

Photo_2 岡本牧子・氏原庸子・山口 修 著(1998)
真田信治 監修
『聞いておぼえる関西(大阪)弁入門』
アルク
ISBN 4872347838

江戸語・東京語・標準語

Photo 水原明人(1994)
『江戸語・東京語・標準語』
講談社現代新書
ISBN 4061492160

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