2011年2月21日 (月)

[はびきの市民大学]大阪のことば―その歴史と文化―

はびきの市民大学では、平成23年度前期講座の受講生を募集中です。木曜日の夜に開講の木曜イブニングスクール「大阪のことば―その歴史と文化―」は大阪のことばをテーマに、“江戸時代の文学作品に現れた大阪方言”、“落語・漫才の大阪ことば”、“現代の大阪方言”という 3つの観点から捉え、その歴史の深さ、空間的広がり、言語としてのヴァイタリティ等について考察します。

はびきの市民大学
http://www.city.habikino.osaka.jp/lic/shimindaigaku/index.html

大阪大学21世紀懐徳堂のホームページにも情報が掲載されています。
http://21c-kaitokudo.osaka-u.ac.jp/events/2011/4aeolr

2010年3月13日 (土)

ご投稿2件

広島にお住まいの岩田さんから、役割語についてご投稿を戴きました。

1.関西弁キャラについて

シュレックが関西弁をしゃべることについて、私はちょっとしたひっかかりがありました。先日の講演でもおっしゃっていたように、関西の色が強過ぎて、例えば、スコットランド人英語などの翻訳には合わないのではないかとのことでした。

ローグギャラクシーというPS2のソフトがあります。そこに出てくるサイモンという宇宙人は、関西弁をしゃべります。このゲームは音声がでて、台詞が音で入ってくるんですが、どういうわけか、サイモンは関東人の声優さんを使っているため、不思議な関西弁を話します。このエセ関西弁は、最初非常に抵抗を感じるんですが、慣れてくると、関西人というイメージからは独立した関西弁としてうまく合っているような気がするのです。つまり、関西色を消しつつ、関西弁キャラが成り立つには、このエセ関西弁が役立っているように思えるのです。

CMでも最近、エセ関西弁がちょろちょろ聞こえます。わざと使っているとしたら面白いなあと思っている次第です。

2. ドメニコ・ラガナの著作から

ドメニコラガナ『日本語とわたし』 1975

その中で著者は、対談などで外国人が日本語を話すと、編集部が勝手に外人的日本語にいじって変えてしまうということをぐじぐじぐじぐじ文句を言っています。これって、まさに役割語の話だなと思います。読み物としては愚痴っぽくて嫌いですが、ちょっと面白い点がちらほら。

1.こういう役割語的な言い方は、アルゼンチンには一部の子供マンガにしかない。

2.役割語を新聞や文芸雑誌でまで使わないでほしい。

3.~アルカ?という質問はやめてほしい。

金水先生の本があと35年早く出版されていたら彼の愚痴はちょっと弱まったのかなあなどと思っています。個人的には、1975年の時点でも、アルヨ言葉が中国人に特化していないんだなあということがおもしろかったです。

2009年7月26日 (日)

フランス人に大阪弁

黌門客」に、役割語について言及がありました。

2009年7月24日 (金)

日本語における中心と周縁

この本の「おわりに」を上げておきます。

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 自己と他者との間に、「どちらともとれるもの」あるいは「どちらでもないもの」の領域がある。中心に対する周縁、マジョリティに対するマイノリティとして位置づけられる領域である。この中間的な領域は、明確な他者=ソトの存在によって、ウチに取り込まれるが、常に中心からは区別され、場合によってソトに追いやられる。マンガをはじめとするポピュラーカルチャー作品でも、中心-周縁-外部の各領域は、何らかの形で印付けられると見てよい。そして周縁=マイノリティが、外部=他者へとはじき出されようとする力、あるいは周縁に位置するものが中心を志向する力が、往々にしてドラマを動かしていく推進力となる(なお、本書「はじめに」で伊藤公雄氏は〈他者〉は「マイノリテイとしてしばしば現れる」とされている。むろんその指摘は正しいが、しかしここではあえて、マイノリティと〈他者〉を区別する見方を立ててみたい)。

 例えば、石ノ森章太郎(一九三八~一九九八)の代表作『サイボーグ009』(一九六四~)では、まずヒーロー群の九人全員が、悪の組織の「ブラックゴースト」によって拉致され、サイボーグに改造され、さらに反乱を起こして善玉に寝返ったという点で、外部から中心への運動がドラマを始動させている。しかし九人のヒーロー(ヒロイン)は、人間ならぬサイボーグであるという点で、中心ではなく周縁に位置せざるをえない。そもそも拉致される前の九人は女性の003を除いて、奴隷、不良、失業者、反政府主義者など、周縁性を色濃くまとっていた。さらに九人(+ギルモア博士)の内部にも、「男性」対「女性」、「白人」対「有色人種」、「成人・壮年」対「幼児・老年」といったマジョリティとマイノリティの対立が仕組まれており、その対立がドラマを紡ぎ出していくのである。

 さて、本書の諸論文が取り上げた作品群は、幕末から第二次世界大戦を経て現代に至る時代を扱っているが、この時期はことさらに、中心-周縁-外部の構造がめまぐるしく交代していった時期である。徳川幕府を中心とする幕藩体制、士農工商の身分制度、鎖国による独我的世界観は、明治維新とともに崩壊し、天皇を頂点とする国民国家体制へと急速にシフトしていった。「日本」という自我が立ち上がるとともに、中国や欧米諸国が新たな他者として立ち現れた。かつての薩摩、長州、土佐といった藩は明らかに幕府に対して周縁であり、幕末のドラマは、周縁が中央に攻め上る物語として構成される。この時、方言が重要な役割を果たすのである。本稿執筆中の現在、たまたま放送中であるNHKの大河ドラマ「篤姫」(脚本・田渕久美子)では、西郷吉之助(隆盛)(小澤征悦)、大久保利通(原田泰造)といった薩摩の下級藩士が擬似的な薩摩弁を話すことによって、その周縁性を表している。ところが、篤姫(宮崎あおい)や小松帯刀(瑛太)といった上士階級の人々は、台詞の中に方言色をいっさい出さない。これは、薩摩藩の中でもマジョリティとマイノリティの対立があることを浮き彫りにしている。

 ところで、吉村和真氏は、「漫画九州人の2大基本タイプ」(「新春鼎談 この愛すべき異彩の面々」『西日本新聞』二〇〇二年一月一日)という表において、マンガに現れる九州人を、西郷タイプとロックタイプに分類した。前者は、一目で九州人と分かる容姿、方言丸出し、貧しくてもたくましい、などの特徴を持ち、後者は端麗で都会的、標準語の使用にこだわる、孤独、冷めているといった特徴を持つとした。そして、前者のモデルは西郷隆盛、後者のモデルは大久保利通としているのである。確かに、西郷隆盛は土佐弁の坂本龍馬とともに、常に方言キャラクターとして描かれるのに対し、大久保利通は「篤姫」のように方言を話す場合がある一方で、標準語キャラクターとしての印象の方が強い(例:和月伸宏『るろうに剣心』ジャンプ・コミックス完全版06、二〇〇六年刊、八七頁など)。これは、明治の元勲として中央に上り詰めた大久保と、意志半ばにして郷土で敗れ去った西郷とのイメージの落差によるところが大きいであろう。西郷隆盛は最後まで周縁性をぬぐいきれないキャラクターなのである。

 もう一つの例として、金水論文でも取り上げた「のらくろ」シリーズを見てみよう。一九三一年、『少年倶楽部』誌に登場したのらくろ(野良犬黒吉)は、文字通り「野良犬」の「黒犬」であり、かろうじて「猛犬軍」の二等卒に潜り込んだマイノリティの代表である。のらくろが失敗を重ねながらも、独特の機知を発揮して手柄を立て、出世していく様子に、大人社会から区別されたマイノリティである少年たちは自我を重ね合わせ、興奮して受け入れた。すなわちここでも、周縁から中央へと攻め上っていくヒーローの物語が見える。さらにこの作品(『のらくろ総攻撃』『のらくろ武勇談』等)では、熊(ロシア)、羊(満州)、豚(中国)というように、当時の国際情勢を反映した他者が描かれ、特に、豚のことばとして、欠損した言語であるピジン(アルヨ言葉)が使われていたのである。

 本稿執筆者(金水)は特に言葉に興味を持っているため、言葉の面からの分析を試みたが、上に見たように、標準語、方言、ピジン等によって、「中心―周縁―他者」の構造がはっきりと印付けられていることが分かった。自己と他者の対立とその物語は、本書に収められた諸論文を読んでも分かるように、その内部にさまざまな揺らぎをはらんでいるのであり、それゆえに、自己と他者の間に「どちらともとれるもの」「どちらでもないもの」の層を置いてみることで、さらに解釈が深まる面もあるものと期待される。なぜ、物語の主人公は多くの場合、どこかしらに周縁性を身にまとっているのか。それは、作品の読者の誰しもが、「自分は絶対的な中心から外れたところに位置しているのではないか」という不安感を抱きながら生きているからであろう。だからこそ、読者は、マイノリティであるヒーロー(ヒロイン)に我が身を重ね、彼(彼女)が中央へと攻め上る旅に共感するのである。なお、周縁に身を置く視点設定は、自己と他者、ウチとソトの枠組みを揺さぶる強い批判的契機として機能しうる一方で、かえってその枠組みを強固にする方向にも機能しかねない点に注意すべきである。幕末物にしばしば見られる、明治維新を絶対的な「明るさ」として描く視点(司馬遼太郎に代表されるであろう)や、のらくろにおける猛犬軍の揺るぎなき正義性等が、そのような枠組み固定の危うさをよく表している。

 さて、著者らの怠慢とわがままその他の諸事情ため発刊が遅延し、頓挫の危機にも直面した本書も、編集者・薗田美和さんのご努力によって、なんとか刊行にまでたどり着いた。末筆となったが、改めて著者一同を代表し、薗田さんに感謝の気持ちを捧げたい。(以上)

2009年7月20日 (月)

方言のコストパフォーマンス

学科のバス旅行のしおりに投稿予定の原稿です。

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 「おっぱいバレー」という映画がある。北九州を舞台にしながら、主役の綾瀬はるかやバレー部の少年たちを初め、福岡弁を話す人間が一切出てこない。不自然と言えば、不自然。特に、当地で育った方が見たら、さぞかしこそばゆい思いをされることだろう。風景はばりばり、戸畑なのに。似たような現象はいくらでも見つかる。テレビドラマ「Dr. コトー診療所」は、ロケ地が与那国島だそうだが、出てくる人々は共通語か、そうでなければ、いわゆる〈田舎ことば〉(田舎っぽいが、特定の地域を感じさせないヴァーチャル方言)を話しており、琉球語は片鱗も聞かれない。こういった問題を、映画やドラマの作り手の立場から見ると、コストパフォーマンスという観点が重要になってくるように思われる。

 ここで言うパフォーマンスとは、なによりもまず伝達上の効率のことをさす。一番大事なのは、伝わりやすさ、即ちその言葉を使って、できるだけたくさんの人々に理解されるかどうかということである。この点で、共通語がもっとも高パフォーマンスであることは言うまでもない。日本語圏であれば、誰であれ、確実に通じるからである。

 では、すべてのフィクションは共通語だけで作られればいいのかというと、そうとも言えない。方言には共通語にはない、別の効果がある。まず舞台が地方であれば、方言を含めたその地方らしさが作品のアクセントであったり、作品の重要なモチーフであったりする。また共通語基盤の作品の中で方言を話す人物が出てくれば、その人物は例えば"無教養""愚鈍""純朴"といったイメージをまとったキャラクターとして登場してくることだろう。キャラクターの描き分け、という点で、方言はとても重宝である。たとえば、2008年度下半期にNHKで放送されていた朝のテレビ小説「だんだん」では、双子の姉妹(三倉茉奈・佳奈が演じていた)が生まれてすぐ引き離され、京都と島根でそれぞれ育てられたという設定で、成人し、再会してもそれぞれ京都弁(舞子言葉)と島根弁を使い続けていた。これは特に、双子の姉妹を視聴者が区別しやすいように、方言を使い続けさせる必要があったためと推測される。

 ところがここで、特定の方言を使用した場合に生じる、別の問題が生じる。方言がどれだけ"本物っぽい"かという点である。方言が中途半端に再現されると、地元の方にとってはこれほど不快なことはない。先の「だんだん」の例で言うと、ドラマの中で島根の人たちは何かというと「だんだん」という感謝の挨拶を口にする。ところが現実の、地元の人に聞いてみると、「だんだん」は必ず「だんだん、だんだん」と繰り返して使うのが普通で、「やさしくしてくれて、だんだん。」のような使い方は非常に変に聞こえるそうだ。

 方言は"リアリティ"という独自の価値で計られる。リアリティが高いということは、つまり"本物"っぽい、ということで、一応"いいこと"と評価される。ところが、このリアリティを高めれば高めるほど、最初に述べた伝達上の効果が薄れるリスクを帯びる。つまり、広範な日本語使用者に通じにくくなるのである。特に青森の津軽方言とか、琉球のウチナーグチとか、土地の人以外にはほとんど通じない言葉は、よほど限定された効果をねらってのことでなければ使用できない。一般に、方言のクオリティ(=リアリティ)と、伝達容易性というパフォーマンスは相反関係にある。

 次に、コストの面から考えてみよう。共通語は、伝達の効率において最高のパフォーマンスを有するとともに、コストにおいても最も経済的である。共通語の台詞は、脚本家なら誰でも書けるし、共通語で演じる役者は最も豊富に存在する。ところがいったん、方言を作品に導入するとなると、さまざまな問題が生じ、余計なコストが生じる。当該の方言で演じられる役者が十分調達できるとは限らず、調達できてもできなくても、"方言指導"という役割のスタッフを余分に雇わなければならない。方言指導者のもとで台本のチェックや、演技の確認など、余分の時間を費やすことになる。たとえ入念な方言指導が仮に実現できたとしても、役者によって方言再現能力の隔たりが大きいし、そもそも方言は演技のための言葉としての洗練を経ていないので、リアルであっても演技として成立しない、という場合も出てくる。そこで、ほとんどは共通語を基盤とし、わずかに文末や特定のセットフレーズに方言らしさをちりばめた、いわば"なんちゃって方言"でお茶を濁す、という処理に落ち着くことがしばしあである。「だんだん」の島根弁などはそのいい例であろう。また、初めから方言のリアリティ追求を諦め、ステレオタイプな〈田舎ことば〉で我慢しておくという手もある。〈田舎ことば〉はもともと役者の中に入っている演劇的言語の一部であり、コストゼロで導入できるのである。「Dr. コトー診療所」はまさしくそのように処理されていた。

 ここまで書いてきて、二点気づかれることがある。一つは、共通語の本質である。共通語とは、パフォーマンス面においてもコスト面においても最も好ましい性質を持っていることが確認されたが、ある意味でこの言明は逆転している。つまり、近代以降、話し言葉においてコストパフォーマンスを上げるべく洗練を経て生き残ったのが共通語(標準語)だったのである。これは、書きことばにおけるいわゆる言文一致体の形成と平行している。

 もう一点、いままで方言一般について述べてきたが、関西弁はその中で明らかに特殊であり、他の方言とは一線を画している。関西弁は、中世の能狂言は措くとしても、近世以後の浄瑠璃、歌舞伎、上方落語、にわか、漫才、曽我廼家五郎劇、松竹新喜劇、吉本新喜劇等々、長らく舞台言語として琢磨されてきたのであり、その歴史は共通語(~東京語~江戸語)よりも古い。そしてそれに見合うだけの、演技者の厚みがある。クオリティの高い関西弁を使いこなす役者を、老若男女、容易にそろえることができる。即ち、関西弁は他の方言から抜きんでて、コストパフォーマンスが高いのである。作品のアクセントとして関西弁キャラクターを配した作品は枚挙に暇がないし、登場人物すべて関西弁という作品だって、容易に成立する。このようなことは他の方言ではとうてい考えられない、関西弁独自の特質である。  (以上)

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以上の原稿を書くにあたって、このサイトに重要なヒントをいただきました。記して感謝します。

2008年8月13日 (水)

大阪落語と大阪弁

次のイベントに出演します。天満天神繁昌亭で、落語家さんと対談します。

第5回大阪再発見のつどい

「(落語とトーク)=大阪落語と大阪弁」

主催:上方落語協会、産経新聞社
後援:大阪天満宮、大阪商工会議所、大阪大学21世紀懐徳堂

於:天満天神繁昌亭

時:2008年10月25日午前9時30分会場 同10時開演

第一部 トーク
  桂春之輔
  金水敏
  高島幸次(司会)
第二部 落語
  桂春之輔「ぜんざい公社」
  桂 小染「禁酒関所」
  桂春団治「いかけや」

2008年7月 7日 (月)

オキナワの役割語

沖縄キリスト教学院大学 人文学部 コミュニケーション学科 准教授の本浜秀彦先生から、論文・講義資料等をいただきました。

「オキナワ文学における「方言」の位置」
  早稲田大学 文化構想学部・文学部
   総合講座「アジアのことばと文化」2008年5月7日

「沖縄表象は、猥雑なトラベルライティングか?」
  『国文学 解釈と教材の研究』2008年7月号(第53巻10号)
   特集 地方の文学・沖縄編、100-108頁

上の講座では、沖縄の役割語についてご考察なさっています。以下に該当箇所をご紹介させていただきます。

6 沖縄表象における「役割語」とステレオタイプの問題

95年以後、「外部」の視点での沖縄表象が急増(例・テレビドラマ「ちゅらさん」)
→ステレオタイプの問題

役割語 ~ある特定の人物像を思い浮かべることができるときの、その特定の言葉づかい~
(金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』、岩波書店、2003年)

     ~ステレオタイプの言語的側面(例)台詞の文末表現「~さあ」の多用
      →「ハッピーオキナワン」の捏造
  

2008年2月 8日 (金)

おじさん言葉

 「日本経済新聞」2008(平成20)年2月5日(火曜日)付夕刊(近畿版第4版)12面のコラム「にほんごチェック」(大阪大学大学院言語文化研究科教授 小矢野哲夫氏、毎週火曜日連載)において役割語に関する言及がありました。以下に引用させていただきます。なお、文中の「馬場氏」とは、現在放映中のドラマ「佐々木夫妻の仁義なき戦い」(TBS)に登場する、藤田まことさん演ずる弁護士のことを指しています。

「・・・ですな」 おじさんに多い言葉遣い

 (前半略)

 馬場氏の「ですな」は年齢相応の表現として味がある。若い世代はこのような表現はまずしない。方言を除くと、共通語スタイルで「ですな」「でしたな」「ますな」「ましたな」を使うのは年配者だ。しかも男性に顕著だ。中年以上の男性。明らかにおじさんと呼ばれる人の中に、この種の表現をする人がいる。「おじさん言葉」と呼ばれる。
 大阪大学大学院教授の金水敏さんが提唱する「役割語」に入るだろう。

 (後半略)

 なお、上のコラムの全文のほか、過去のコラム、その他多数の論文、エッセイ、講演録、ペットのお写真、料理の作り方などなどを、小矢野先生ご自身のホームページ「けとば珍聞」で見ることができます。ぜひあわせてご覧下さい。

2007年11月19日 (月)

なんだこりゃ~沖縄!

那覇市国際通りのBOOKsきょうはん松尾店で入手しました。

4609346 書名 なんだこりゃ~沖縄! マンガ・映画・雑誌の中の〈味わい深く描かれた沖縄〉を求めて
発行年 2005年11月30日
著者 わうけいさお
発行所 ボーダーインク
〒902-0076 沖縄県那覇市与儀226-3
tel 098-835-2777 fax 098-835-2840
http://www.borderink.com
wander@borderink.com
ISBN4-89982-100-7
1,680円(内税)

前書きから抜き書きします。

 今日までに作られた、沖縄関連の書籍、マンガ、映画、TV、ビデオ等は、それこそ膨大な数に上る。(中略)でも、どんな世界にも、ピンからキリがある。私を含めた、ウチナーンチュから見て、“なんだこりゃ~!”と、ツッコミを入れてしまいたくなるような、味わいある作品もある。他にも、時間が経てば、忘れ去られ、消えていくような、マイナーな雑誌等にも、味わいある沖縄を発見することがある。
 “味わいのある沖縄”とは、つまりなんかどっか少し(いやもの凄く)勘違いして描かれてしまった「わした島、ウチナー」の姿である。また逆に、ウチナーンチュ自身が気がつかない(ちょっと隠しておきたかった)現象もある。
 今回私は自分自身の独断と偏見に則り、漫画・本・映像などのサブカルチャーに見る、味わいのある沖縄を紹介したい。すべて私が、本屋、古本屋、漫画喫茶、図書館、ネット、友人からの情報提供等で、調べたものだ。膨大な時間を費やして、と敢えていいたい。メジャーからマイナー問わず、玉石混交、全てとは言わないが、可能な限り多くを集めたつもりだ。そして、集めた作品を紹介しながら、しばしツッコミを入れ、時々フィクションと現実世界を行き来して、その作品背景を検証するという内容になっている。
(中略)
 また沖縄出身者の作品は、有名どころでもあえて外したことを断っておく。あくまでも、沖縄を外からみたサブカルチャー、というものにこだわってみた。

あとがきから抜粋と目次です。

「ゴルゴ13」は四度仕事で沖縄に来ている。「ブラックジャック」は八重山に島をもっている。などなどオタッキーな話題満載。〈誰も気にしなかったフィクションの中の沖縄〉を、普通の沖縄人としてツッコミを入れてみた、こだわりと驚笑の沖縄初!オタッキーな県産本です。マンガ、映画、テレビ、雑誌などに展開されてきた「知られざる沖縄」に出会える、またとない機会。「こんな何の役にも立たない、くだらない文書を書いたいいのだろうか。いや私が書き残さないと永遠に埋もれてしまう。〈なんだこりゃ~沖縄〉を研究する事は、私たちの文化を見つめ直すことでもある」。

[目次]
第一章 漫画に見る味わい深い なんだこりゃ~沖縄
     来沖したあいつら 職業別編
     さまざまなうちなーんちゅ編
第二章 映像に見る味わい深い なんだこりゃ~沖縄
     特撮の中の思い切った沖縄編
     名作テレビドラマ編
     やがて哀しき沖縄やくざ映画編
     さまざまな映画でみかける沖縄編
第三章 漫画に見る味わい深い沖縄 ぶっとび編
     野球漫画に見るぶっとび沖縄編
     ぶっとび空手とその他の漫画編
     やがて哀しきバイオレンスな沖縄編
第四章 誰がも知らない味わい深い沖縄 立ち読み放浪記

著者について、奥付から紹介します。

わうけいさお
1962年、沖縄市(旧コザ市)出身、コザ高を経て名城大卒。昼仕事の傍ら、長年の立読みで蓄積した無用な知識を武器に、ペンネームを使い分け執筆活動中。と学会会員。

なんとなく「と学会本」に似た味わいが、と思ったら、やっぱり会員さんだったのですね。

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